高崎健康福祉大学 薬学部 分子神経科学研究室
福地 守様
スポンサーリンク
研究内容について
編集部:BDNFという分子に着目して研究をしていると伺いましたが、BDNFとは具体的にどのようなものなのでしょうか?
福地様:BDNFとは、脳由来神経栄養因子の英語名の略称(Brain-Derived Neurotrophic Factor)であり、脳における主要な神経栄養因子です。神経栄養因子とは、神経細胞の生存や成熟、機能の調節に関わるタンパク質の総称であり、BDNFの他にもNGF(Nerve Growth Factor、神経成長因子)、NT-3(Neurotrophin-3、ニューロトロフィン3)、NT4/5(Neurotrophin-4/5、ニューロトロフィン4/5)という神経栄養因子があります。
1982年にBDNFがブタの脳から単離されて以来、先ほども少し述べたような神経細胞の生存や機能の調節といった神経細胞におけるBDNFの作用が研究されてきました。その後、脳におけるBDNFの機能が解析されるにつれて、BDNFが記憶や学習に関与することが明らかになってきました。
BDNFは、脳・神経系において多彩な生理作用を有することから、BDNFと脳・神経系の疾患との関連性も注目されるようになりました。実際に、脳内BDNF発現量の低下が様々な脳・神経系の疾患で認められることが数多く報告されています。
例えば、アルツハイマー病やパーキンソン病といった神経変性疾患、うつ病や統合失調症などの精神疾患の患者死後脳を用いた研究では、脳内BDNF発現量がこれら疾患において低下することが報告されています。そのため、BDNFは様々な脳・神経系の疾患の創薬研究開発に貢献する可能性がある分子の1つとして期待されています。
編集部:BDNFについての全貌がわかると認知症予防が期待できる薬の製品化につながるということでしょうか?
福地様:その可能性はあると思います。例えばアルツハイマー病の例で言えば、死後脳を用いた解析だけでなく、患者の脳脊髄液や血清サンプルを用いた解析により、アルツハイマー病患者ではBDNF量が低下していることが報告されており、「BDNF量の低下が認知症のリスクになるのではないか?」ということが示唆されています。
しかし、「BDNF量の低下は認知症の発症過程のどの段階で起こるのか?」すなわち「認知症の症状が出現する前に起こるのか?」それとも「出現した後に見られるのか?」についてはよくわかっていません。
つまり、「BDNF量の低下は認知症の原因となるのか?」「それとも認知症の結果として認められるのか?」は未だによくわかってはいないのです。
この疑問に応えるためには、まず「健常な脳でBDNFはどのように産生されるのか?」そのメカニズムを知る必要があります。脳内におけるBDNFの発現調節メカニズムを知ることができれば、「認知症においてどうしてBDNF発現が低下するのか?」そのメカニズムを探る手がかりになるかもしれません。
さらに、BDNF量の低下が認知症発症過程のどの段階で認められるのかを知ることができれば、低下したBDNF量を回復させることで脳の機能性を回復させる治療薬の開発、さらにはBDNF量の低下を未然に防ぐことで認知症発症リスクを低下させる予防薬の開発に結びつくかもしれません。ですので、BDNFの機能だけでなく発現制御メカニズムなどの全貌がわかれば、将来的に認知症の治療や予防が期待できる薬の開発に貢献する可能性が考えられます。
以上のことから、私の研究室では、神経細胞におけるBDNFの発現制御メカニズムの解明に取り組んでいます。また、この研究の過程で、共同研究者の力を借りながら、生きたまま脳内のBDNFの発現変化を評価することが可能なマウスを作出することに成功しました。
さらに、このマウスを応用して、神経細胞でBDNFの発現を増加させることができる薬を簡単にスクリーニングすることが可能な方法も構築しました。
いずれの方法も実験動物や培養細胞を使った基礎段階の研究ですが、これらの方法を駆使して認知症脳内でのBDNFの時空間的変化を明らかにし、また脳内BDNF発現をコントロールできる薬が開発できれば、将来的には認知症の治療薬や予防薬の開発の一助になると信じています。
(参考文献)
編集部:BDNF以外の脳・神経系の機能発現に重要な因子に関する研究も行っているようですが、こちらも認知症予防を目指した研究でしょうか?よろしければ具体的な研究内容も伺えれば幸いです。
福地様:私の研究室では、「記憶や学習といった脳の高次機能がどのように発揮されるのか?」そのメカニズムに興味を持っています。
このような研究は、分子・細胞レベル、脳内の神経ネットワークレベル、そして個体レベルでの解析が行われますが、私の研究室では特に分子・細胞レベルでの研究を行っています。私たちが五感を使って手に入れた情報は、神経細胞を通じて脳内に伝達されます。この伝達で重要なのは、神経細胞同士をつなぎ、情報を伝達する場所であるシナプスです。
このシナプスの情報伝達効率は、情報入力の強さに応じて変化することが知られており、これは「シナプス可塑性」と呼ばれています。シナプス可塑性は、記憶や学習の基盤となる細胞モデルとして広く認知されています。
また、長期的に持続するシナプス可塑性には、シナプス活動に応答してある一連の遺伝子が発現すること(DNAのもつ遺伝情報が取り出されてタンパク質などが合成されること)が必要であると考えられています。
そこで私の研究室では、「どのようにしてシナプス活動が特定の遺伝子の発現をコントロールしているのか?」に興味を持ち研究を進めています。このような研究は、記憶や学習に関わる分子メカニズムの解明を目指したものですので、将来的には認知症の治療や予防にも関わってくるかもしれません。
また、この遺伝子の発現制御系は、うつ病などの精神疾患とも関わることが示唆されています。
そこで私の研究室では、「うつ病の治療薬がこの遺伝子の発現制御系にどのような影響を及ぼしているのか?」さらには「うつ病の症状改善に関与しているのか?」といった研究も進めています。
スポンサーリンク
研究にかける思い
編集部:どういったことがきっかけで認知症研究に携わるようになったのでしょうか?
福地様:先にも述べた通り、元々私は記憶学習を支える分子メカニズムの解明に興味を持ち研究の世界に足を踏み入れました。大学4年生で行う卒業研究のための研究室配属がきっかけでこの研究はスタートしました。
当初は認知症研究に携わっているという意識は全くなく、神経細胞が興奮した際に起こる細胞内のイベントに興味を持ち実験を行っていました。具体的には、神経細胞を人為的に活性化させたときに、ある種の遺伝子の発現が活性化するのですが、遺伝子発現の活性化を引き起こすメカニズムを追う研究に従事していました。
この研究で着目していたものの中の1つがBDNFです。一般的に、DNAの持つ遺伝情報は、まずmRNAという形で転写され、mRNAが持つ情報がアミノ酸として翻訳されてタンパク質が合成されます。BDNFにおいては、この転写から翻訳、そしてタンパク質となってBDNFの生理作用を発揮するまでの過程で非常に複雑な調節があります。複雑が故に、BDNFの発現制御に関する研究を掘り下げていくと興味深いメカニズムが明らかになり、研究者として知的好奇心が駆り立てられました。
一方で、BDNFと脳・神経系の疾患との関連性も数多く報告されていました。特に超高齢社会に突入している日本では、認知症などの加齢依存的な疾患の対策は私たちの精神衛生や社会福祉を考える上でも極めて重要な課題です。
このような状況の中、もし私が進めている研究の成果が何らかの形で認知症の治療や予防に結びつけば、、、と思うようにもなってきました。このような思いも持ちながら研究を進めるうちに、先ほども述べましたが、共同研究者に恵まれたこともあり、生きたマウスの脳内のBDNF量の変化を計測する研究手法を私の研究室に導入することができました。
さらに、この研究手法を応用することで、培養した神経細胞を使ってBDNF発現を増加させる薬を簡便に探索することが可能なスクリーニング法を開発することにも成功しました。これらの研究手法を上手く利用することにより、「認知症の脳内ではBDNFがどのように変化するのか?」「脳内BDNF量を増加させることで認知症により低下した脳機能は回復可能なのか?」といったこれまで抱いてきた疑問に答えることができるかもしれません。このような共同研究者との出会いや新たな研究手法の導入が、認知症研究に携わるようになったきっかけです。
編集部:研究所の最終目標を教えてください!
福地様:BDNFの発現に基づいた認知症の治療薬・予防薬開発の基盤を構築することです。BDNFと認知症との関連性は様々な報告により指摘されているものの、少なくとも現時点では、BDNFを標的とした創薬研究開発は消極的であると思われます。そのため私は、基礎研究者としてBDNFが認知症の創薬研究開発におけるターゲット分子になることを証明したいと思います。
現時点では社会に貢献できるような研究成果は得られていませんし、また思うように進まない研究も多くあります。ただ、研究成果を出すことは確かに大切ではあるのですが、責任を持って研究を進めることはそれ以上に大切です。
そのため、どのような状況であっても真摯に研究を進め、エビデンスに基づいた研究の成果を社会に還元できるように、コツコツと着実に、また知的好奇心をもって楽しみながら研究を頑張りたいと思っています。
また、どの研究もそうかと思いますが、研究の目標に向かって研究を進めていくにつれて、新たな疑問や予期せぬ結果が生まれ、さらなる目標が出てきます。知的好奇心がある限り研究に終わりはないと思っているので、可能な限り自分で手を動かして研究を進める、ということを私個人の目標としています。