神戸女学院大学 人間科学部 心理・行動科学科
矢野 円郁様
スポンサーリンク
研究内容について
編集部:過去に認知症についての研究をおこなっていたと伺いましたが、具体的にどのような研究をおこなっていたのでしょうか?
矢野様:認知症の中でも、日本で最も患者数が多いアルツハイマー病(AD)を対象とした記憶の研究を行いました。ADの記憶の特徴の一つに、意識的な記憶が低下するものの、潜在的な記憶は比較的保たれているということが、実験的な研究で示されています。
例えば、様々な単語(例:「ライオン」「くつした」)を1語ずつ繰り返し見せていく中で、それぞれの単語が「初めて見た」単語か「前にも見た」単語かを判断するという意識的に思い出す必要がある課題では、健常な高齢者と比べて、軽度のAD患者は、前にも出てきた単語を「初めて見た」と誤認する割合が高く、記憶成績が低くなりました。
一方、同じように単語を繰り返し見せていく中で、それぞれの単語が「生き物」か「生き物でない」かを判断するという課題では、同じ単語が1回目に出てきた場合よりも、2回目に出てきたときの方が、判断が早くなるというプライミング効果がみられました。プライミング効果は、以前に見たり経験したりしたことについての記憶を無意識的に使っている証拠です。軽度のAD患者と健常な高齢者でプライミング効果の大きさに差がなく、ADになっても単語の意味的な記憶に無意識的にアクセスする能力が保たれていることが示唆されます。
さらに、意識的に思い出す能力がADによって低下するという点を、もう少し詳細に検討しました。先ほどの実験で、単語を1語ずつ繰り返し見せていく際に、1回目と2回目で同じ表記(例えば、2回とも青字)で提示する場合と、異なる表記(例えば、1回目が青字で2回目が赤字)で提示する場合の記憶成績を比較しました。
健常高齢者では、異なる表記で提示された場合よりも、同じ表記で提示された方が、「前にも見た」単語であると正しく判断できる確率が高いという表記一致効果がみられました。実験参加者には、表記の違いにかかわらず、単語が同じであれば同じ単語として判断するように伝えてありますので、参加者は意識的に赤字か青字かといった知覚的な特徴を覚えたり思い出す必要はなく、主に単語の意味の記憶に基づいて「前にも見たかどうか」を判断しますが、そういう場合でも、知覚的な特徴の記憶も無意識的に用いていることが分かります。
一方、軽度のAD患者では、このような表記一致効果はみられませんでした。この結果から、ADでは知覚的な特徴の記憶に無意識的にアクセスする能力が低下しており、そのことが意識的に思い出すことを難しくしている可能性が示唆されます。
参考論文
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/j.1479-8301.2008.00241.x
編集部:現在は認知症とは別の分野の研究をなさっているようですが、どういった研究をおこなっているのですか?
矢野様:ジェンダー平等な社会の実現に向けた研究をしています。女性だからといって化粧を強要されたり、逆に男性だからといって化粧することを否定されたりしない社会、性別によって受けられる教育に違いがない社会にするための研究です。性別によって身体的な違いがあることは自明ですが、性別によって認知的な能力や特性に違いがあるかは定かではありません。
しかし、性別によって認知的な能力や特性に違いがあると信じている人は多く、強く信じている人ほど、その違いを生み出すような行動をとることが研究で分かっています。まずはこういった先入観をなくし、性別によらず、個々人の能力や個性を伸ばす教育や経験が受けられる社会を目指して研究をしています。
参考論文
編集部:現在の研究は何か認知症と関連しているのでしょうか?
矢野様:特に関連性を意識して研究しているわけではありませんが、しいて関連することを挙げますと、介護の領域には、根強いジェンダー不平等があります。
家庭での介護も、職業としても、女性に偏っています。介護だけでなく、保育や看護、家事といったケア労働・無償労働全般について同じことがいえます。女性に偏った介護負担を軽減するとともに、男性介護者に対する差別をなくし、男女ともに生きやすい社会にするための研究を行っています。
参考論文
https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00150430-00000144-0219
スポンサーリンク
研究に対する思い
編集部:人間の認知機能や、それを社会にベクトルを向けた研究をおこなっているとのことですが、こういった研究を始めるきっかけや思いなどがあったのでしょうか?
矢野様:世の中に様々な苦しみがある中で、私が最も耐え難いと感じるのは、真実を訴えているにも関わらずそれを信じてもらえず、無実の罪を着せられることです。そのような冤罪の多くが、目撃者の証言(すなわち人の記憶)が間違っていたことによって起きているということを知り、冤罪を減らしたいという思いで、記憶研究を始めました。
どのような状況で人の記憶が不正確になるのか、誤った記憶に対しても自信をもってしまうのはなぜか、といったことを研究し、その成果を示していくということをしてきました。これまでに多くの記憶研究が蓄積され、取り調べや裁判の過程でどのように記憶が歪んでいくかが明らかになってきたことで、実際に、取り調べの可視化などが進められるようになってきました。
また、以前から、ジェンダー不平等な現状に問題意識はありましたが、積極的にこれを変える必要を感じ、研究を始めようと思い立ったのは、女子大学に勤めた経験がきっかけとなったように思います。女子学生たちから将来の夢を聞く中で、仕事と家事・育児を両立するのが難しいために(仕事もしたいが子どもも欲しいから)専業主婦になることを希望するという学生が少なからずいます。家事・育児をしっかり分担できる男性が少ないという現状があり、待機児童など保育に関わる問題が山積みである限り、そういう女子学生に強く経済的自立を求めることも難しく感じます。
女性の社会参画を促進するためには、男性の家事・育児・介護への参画が必須です。「男らしく」あるいは「女らしく」生きることを当然とする社会的な圧力がなくなり、全ての人々が、「自分らしく」生きていける社会にしたいと強く思います。
編集部:現在の研究の最終目標を教えてください!
矢野様:人々が、「男らしさ/女らしさ」といった性別に基づく固定概念に縛られることなく、「自分らしい」生き方ができるような社会を実現することが目標です。