アイドル歌手がコンサートなどで、「この景色が見たかった!」というような発言されている様子をテレビで目にしたりします。舞台の上から眩いスポットライトを浴びて、自分だけを見つめる大勢のファンが見える。
それは常人が見ることのない、まさしく“景色”なのでしょう。
家の窓から眺める外の風景、天気や季節による変化はあるでしょうが、特別に心揺さぶるほどのものはなく、いつもの風景がいつものように目の前にあると思います。しかし、同じ場所でも視点が変わると、その景色にハッとさせられる体験をします。
例えば、一つ階を上がったところから窓の外を見るだけでも、違った風景を感じられます。お店などを探してキョロキョロとしている時に、ふと看板などを見上げるとビルに見下ろされているようで圧倒されてしまいます。
窓際を利用して、「立つ」練習をしていた方の言葉が思い出されます。それは「座ってみる景色と、立って見る景色は違うんだ」、「立って眺めると気持ちがいいんだ」というものでした。
何らかの事情で車椅子での生活になられた方にとって、立つという体験は、単純に立つという動作を再獲得するためとか、下肢の筋力をつけるためというものではなく、景色の変化を通じて立っている自分をありありと感じることのできる時間なのではないでしょうか。
それが「気持ちがいいんだ」という言葉に表れているように思うのです。
体の状況から、一人で立つという動作が難しい高齢者もたくさんおられます。そのような方たちにとって、立つ動作が不要なものではありません。介助付きであっても立つという経験は、忘れていた能力を思い出すきっかけになると多くの高齢者に教えられました。
「立って眺めると気持ちがいいんだ」という前向きな気持ちは、関わる介助者の気持ちまで前向きにさせます。
“少し足が踏ん張っていられましたね”、“少し歩いてみましょうか”、“トイレを使ってみましょうか”。舞台もスポットライトもありませんが、「この景色が見たかった」というアイドルに声援をおくりたくなるファンのようなものかも知れません。
お互いが、お互いを気持ちよくさせるという意味では、介護はやはりコミュニケーションそのものなのだと思います。
車椅子の高齢者にしてみれば、介助者は見上げて圧倒されるビルにもなります。しゃがんで目線を合わせるのも良いですが、車椅子の高齢者に立っていただくことで目線を合わせるのも“あり”でしょう。