人出の多いお祭りやイベントでは、幼い子どもを肩車して歩く家族連れの光景を目にします。子供を肩に乗せている父親は、子供が落ちないよう安全にしっかりと支えることで、肩に股がった子どもをコントロールしているように見えます。しかし、実際に肩車をしてみるとわかるのですが、支えている者が主導で動きをコントロールしようとすると、肩の上に乗った子どもはバランスがとりにくくなり、支えている者の労力も大きくなってしまいます。
むしろ、子どもは自由にさせて、その動きに応じてさりげなく下支えを作るようなイメージで動いていくと、両者気持ち良い関係でいられます。つまり、子供が少し前のめりになったと感じたら、子どもの体を無理に戻そうとせず、自分も前に動いて受け皿を作っておくといったイメージです。
介護も肩車と似ています。肩の上にいるのは高齢者であり、下で支えるのは介護者です。肩の上にいる高齢者の動きを、支える介護者がコントロールしようとし過ぎると、高齢者は自由な動きを奪われ、かつ恐ろしい思いをします。一方、支える介護者も介助に余計な力を使う羽目になってしまいます。
子どもの肩車に戻りますが、子供が成長して体格が大きくなり体重が増えると、父親はもう自分の腕力だけで肩の上の子どもをコントロールすることは難しく、自然と肩の上に乗った子どもの動きの受け皿になるよう肩車の方法を自然と学習します。
介護現場では、利用者主体という言葉がありますが、肩車はまさに利用者主体でなければ成立しません。
利用者主体であるべき介護も同様だと思います。高齢者が自分の肩に乗っていると思うと、その高齢者の動きを力でコントロールするには限界があります。高齢者には自由に動いてもらいつつ、介護者はその動きの下支えを作っているつもりで介助することが大切です。
ただ前に進むだけでも大変な二人三脚を想像すればわかるとおり、二つの体で一つの動作を行うのは難しい作業です。人馬一体という言葉がありますが、介護も高齢者と介護者が一つの体になったように感じられるのが理想です。
もちろん、一つの体とは高齢者の体の方です。歌舞伎では演者の介添をする黒子がいますが、黒子の姿は見えていないという約束事になっているそうです。介添は受けるが舞台に上がっているのは演者のみということでしょう。介護を受けつつも、生活という舞台に上がっているのは高齢者、歌舞伎も介護も演じる(動作を行う)体は一つです。