みなさん歳を重ねると膝や腰、肩や首など、からだのそこかしこに痛みを生じます。痛みの原因は様々あると思いますが、多くは誰にでも生じる体の組織や細胞などの生理的変化によるところが大きいと思います。つまり、からだは毎日の生活で活躍し続けてくれたことによって少しずつ劣化(老化)が進み、痛みや不具合を生じます。
諸行無常、形あるものいつか壊れると言われますが、真新しい新築住宅を、念願のお気に入りの新車を、いつも掃除し整備し丁寧に使っていたつもりでも、気がつけばあちこちに傷や故障が目立ちはじめます。その度に修繕をして、ときに大々的なリフォームや車検を経て元の美しさや機能をなんとか保ちます。
からだも同様です、痛み止めや湿布を処方してもらう、マッサージに通う、ときには劣化した臓器や関節に大きな手術が施され、目先の辛さを回避し、からだの機能を何とか保ちます。
形あるものは使い続けることで痛みや不具合が生じる一方で、使わなければあっという間に劣化が進むというパラドキシカル(逆説的)な側面があります。人が住まなくなった住宅はすぐに荒れ果てますし、動かさない車はすぐにエンジンがかからなくなるというのは分かりやすい例ではないでしょうか。
私たちのからだも、もちろん同じです。痛いからといって動かさないでいると、動かなくなるばかりではなく、痛みに対してもより敏感になり、さらに動かさないようになってしまうという悪循環を起こします。
痛いから、そこに傷があるから、治療をする、修繕を施すことで解決を図ろうとするのは自然なことでしょう。しかし、同時に使い続けることなしには、全体としての機能が果たされないのが私たちのからだなのです。
痛みのある場所をそっと自分で動かしてみる、どのくらいの量、どのくらいの強さで、どのように動かすと痛いのか、痛くないのか、あるいはそのときの痛みは受け入れられる範囲のものなのか。自分で動かすことで、からだはすぐにいろいろな対処を学習してくれます。そして痛みがありつつも動かすことのハードルが1ミリメートルでも下げられるのです。
例えばマッサージなど、自分ではない誰かが下げてくれたハードルのバーより、自分で動かして痛みや動きの許容範囲を学習する、つまり、自分で下げたバーのほうが、それを超えられる可能性は高くなります。
ヨーロッパの建築物のように、修繕しつつも使い続けることで、味わい深いものになっていく。私たちのからだもそうありたいものです。