年齢を感じてしまう日常の出来事の一つに、人や物の名前、地名などが思い出せない、いわゆる物忘れがあると思います。ついつい「あれを、あれして・・」なんていう会話になっていたりします。それでも普段は特に気にすることなく生活できるのは、全く忘れてしまったのではなく、何かのきっかけがあればすぐに思い出せるということが分かっているからだと思います。
例えば人の名前であれば、「あ」、「い」、「う」と最初の一文字をいろいろと思い浮かべているうちに、そうだ「内田」さんだと思い出すことも多いです。このように覚えたことを思い出すには“きっかけ”が役に立ちます。そして、あーよかった、忘れてしまったわけではないのだと安心する自分がいます。
起き上がったり、服を着替えたり、何か道具を使うのも記憶として覚えているものです。こちらは体で覚えた記憶です。起き上がり方を忘れる?服の着替え方を忘れる?道具の使い方を忘れる?にわかには想像し難いかもしれませんが、体で覚えた記憶も人の名前と同じように、しばらく行っていないと思い出し難くなります。
例えば、一時的にも要介護状態になってしまった方が、回復された後にも必要以上に介助される状況が続いてしまうと、いざその動作を自分でやろうとしたときに、どうして良いかすぐには体が反応してくれないことがしばしば起こります。そうしてもたついているうちに、「では、お手伝いしますね」と、いつものように介助されてしまうことになってしまいます。
人の名前を思い出すのに“きっかけ”が必要なように、体で覚えた記憶を取り出すにも“きっかけ”が重要です。この際のきっかけとは、自分でその動作をやり始めることです。つまり、自分でやろうとしてもたついているそれが大切なのです。
他者から見ればもたついているその動きも、本人にしてみれば目一杯の、しかも動作のやり方に正解があるとすれば100%正しいやり方なのです。
介護に携わるうえで、その方の動作を待てる、待てないの違いが介護のスキルに反映します。できるところは自分でやっていただくという、介護の基本に通ずるものだからです。もたついているように見えるその動き、それこそが体で覚えた記憶を取り出す“きっかけ”となる大切な動きです。
介護を行う上で“待つ”は何を待てば良いのか、それは自分でやろうとしてもたついている、しかし本人にとって正しい動きを少しだけ待って差し上げると良いのです。そして一部でもその動作を自分で行えたとき、あーよかった、忘れてしまったわけではないのだと安心することができます。