僕は、妻が若年性アルツハイマー型認知症と診断されてから、すぐに認知症に関する本を買い、インターネットで検索をしました。
妻が診断されたのが2005年で、前年の2004年は、厚生労働省が「痴呆」を「認知症」へと呼称変更をした年でした。そして、翌年の2006年に若年性アルツハイマー型認知症を扱った映画である渡辺謙主演の「明日の記憶」が公開されました。この頃、若年性アルツハイマー型認知症は世間にほとんど知られていませんでした。
インターネットで情報を調べると若年性認知症について、いいことはあまり書いていません。
5、6年で寝たきりになり、寿命は8年ほど。
そのうち家族のこともわからなくなり、暴言・暴力や徘徊が始まる、など……。
今は若年性アルツハイマー型認知症と診断を受けても、希望を持って共に生きるという考え方が広まっていますが、当時は偏見と誤解がまだ多くありました。
「どうして僕の妻がこんな病気になってしまったのか」という悲しさもありました。それと同時に、僕はほっとしたのです。うつ病と診断されていた頃は、「頑張れとか励ましてはいけない」「心の風邪だから、いつかは治るので待っていて」などと医者から言われ、僕は妻に対して何をすればいいのかわかりませんでした。
でも「認知症と診断され、ようやく敵が見えた。これからは、一緒に向き合っていく」そう、思いました。
その不確かささえも、ふたりで抱えていく
認知症は、本人が一番大変です。
あるとき、妻が「お父さん、なんだか私バカになっちゃったみたい」とポツリと言いました。
本人も、自分がどんどん変わっていっているのを感じているのです。
そう意識はしているものの、しばらくすると急に怒り出す。そして、落ち着く。これを繰り返す。妻はまるで、感情の海に漂っている波のようでした。
僕は、妻の変化についていくことができず、つい怒鳴ってしまったり、ふたりで同じ土俵で言い争ってしまう、なども経験しました。
このようなことを繰り返し、本人の行動を理解して、寄り添うことがとても大切だということがわかりました。
また、若年性アルツハイマー型認知症と診断されて、一緒に向き合ったからこそ、妻の気持ちや認知症のことを知ることが少しずつできるようになっていきました。
元気になってほしいから
病院へは、月に2回通院していました。
妻は、若年性アルツハイマー型認知症と診断される少し前から、食事が摂れない日が続いていました。
朝は全く食べず、昼を用意しても箸をつけない。夜も、一口か二口食べるだけ。食べ物を受けつけなくなって、一日中寝ているだけ。体重も急激に減ってきます。
2か月後の診察で入院をすすめられました。
本人は嫌がっていましたが、先生に詳しく説明を受け、首を縦に振りました。
入院といっても、アルツハイマー型認知症の治療ではありません。急激な体重減少は内科的な問題があるかもしれないので、検査入院としてと、いうことです。
「精神科の閉鎖病棟へ入院して、そこから内科へ通院します」と説明を受けました。
妻は帰りの車のなかで、嫌がりずっと泣いている。僕も辛くて仕方ない。でも、痩せて体力もなくなり、認知症の症状も進んでいる。
普通の受け答えもできなくなっている。また食べられるようになり、元気が出てくれれば。
仕方ないと思いながら帰りました。
寄り添うこと、それが僕の役割
ベッドが空かず、1か月が経ちました。
入院の説明を受けに、僕一人で病院へ行きました。そこで看護師から、閉鎖病棟について説明を受けました。
出入り口には鍵がかけられ、面会もナースステーションに行き鍵を開けてもらう。その都度荷物チェックがあり、持ち込み品も制限がある。
僕は、閉鎖病棟の意味もわからず了解していたことに気づきました。
妻は食事が摂れないだけ。逃げたり、暴力もない。
そこに入院をすると、かえって悪くなりそうだと思いました。
先生に会い、閉鎖病棟から開放病棟への変更をお願いしました。
先生から「閉鎖病棟といっても、皆さんが考えるような病室とは違いますよ。鉄格子も、仰々しい鍵もありません。声を張り上げる人もいませんし、病棟内に入ると明るくて、看護師も親切で、患者さん同士仲良くしています。奥さんの場合、外に出ると病棟に戻って来られない心配があるので、閉鎖病棟にしました」
と先生から丁寧に説明を受けて、僕は少し安心しました。
たしかに妻は、外に出るとどこに戻ったらいいかわからなくなってしまうでしょう。
でも僕は、「妻のためにも閉鎖病棟には、入れたくないです」と先生にお願いしました。
先生も「奥さんはおとなしいから大丈夫でしょう」と言ってくれたため、開放病棟にしてもらうことができました。
それから、少し経った6月7日、妻は入院となったのでした。