近所のコンビニまで出かけるとき、部屋着(スウェットなど)のまま行きますか?それとも着替えてから行きますか?もちろん、どちらが良い悪いではないのですが、“そのまま行く派”と、“着替えて行く派”の違いは何なのでしょうか。
哲学者の鷲田清一さんは、ヒトが服を着はじめるのは“自分が他人の目にどんなふうに映っているか意識し出したとき”と著書で述べられていますが、とても納得します。
例えば、小学校に上がる前の子どもは、そこまで服装を気にかけることはないでしょうし(どちらかというと、親のほうが他人の目を気にしている)、どこにも出かけない休日に、おしゃれな服装で一日過ごす人は少ないはずです。着替えるという行為は、他者の存在が大きく影響しているようです。
病院に入院されている患者さんによっては、着替えに介助を必要とする方もいますから、作業療法士による着替えのリハビリが行われます。自宅での生活を想定し病衣から私服へ着替える動作の自立や、朝晩の着替えを習慣づけるためです。
しかし、入院中の患者さんで、着替えのリハビリにモチベーションが上がらない方が少なからずおられます。それは患者さんにやる気がないのではなく、まだ他人の目線にまで想像力がおよぶほどの余裕がない状態であるとも解釈できます。
部屋着のままコンビニに行く人も、特定の誰かと会うときには、やはり着替えて出かけるでしょう。着る、装うことは自己表現であり社会参加の手段です。“あなたは見られています”そこに働きかけることが大切です。
病院で、ほんの少し病衣にシミがついていた患者さんに対して、すぐ取り替えましょうねと声をかける看護師さんにとても感銘を受けました。“あなたは見られています”それこそ、患者さんを社会参加に近づける大切な関わり方であると気づかされるからです。
部屋着やシミのついた服でいればそれなりに、オシャレをすればまたそれなりに、私たちは服装に応じた行動をとっているのではないかと思います。逆に、相手の服装によって無意識に態度を変えてしまっているのかも知れません。
病衣で過ごす家族を見れば、どうしても病人扱いしてしまいます。大切なのは、自分で着替えができることではありません。介助であっても今日は何を着ようかしら、何を着ますか?それが大切です。
あなたは見られていますよ、そんなところに人の行動が変わるきかっけが隠されています。
参考図書
鷲田清一:ちぐはぐな身体、ちくま書房、東京、2005年