休日前夜、時間の制約からの解放はいつもの居間の空気まで違って感じます。時間を自分で操り何かすることができる、それが小さな幸福なのかも知れません。
しかし(個人的な経験です)、あれをしよう、これをしようと自由に操れるはずだった時間は、たいていの場合、あれといったことも、これといったこともせずに、明日のことを考えはじめた途端に迫りくる時間の制約に拘束されて終わります。
そして何もしなかったと気持ちが落ち込みます。定年退職後は自由を謳歌しようと夢見ていた方が、実際、その時を迎えるとやることがなく時間ばかりが過ぎていってしまうなんていうことも多いと耳にします。
そういった事実から考えると、時間を自分で操り具体的な何かをするのが小さな幸福なのではなく、“その先の時間に生じることの可能性を想像できる”ことが小さな幸福だと言えそうです。休日に何かをしてもしなくても、また次の休日前夜には明日生じることの可能性に幸福を感じられていますし。
重い障害によってほとんど身体の自由がきかない中で、表情や言葉、残された少しの動きから心豊かに、穏やかに生活されていると思われる方もたくさんおられます。
具体的な行動を自分で完結するという面では十分に満たされなくても、今できる少しの動きを自分でする、介助によってもたらされる過程や結果を想像することはできます。“その先の時間に生じることの可能性を想像できる”それがいかに大切かを教えていただけます。
しかし、本人が可能性を想像するには、家族や介護者のかかわり方が重要です。本人にある少しの動きという可能性を介助で奪うことはあってはなりませんし、介助する場合も「体の○○を触らせていただきます」、そして「次に体をこう動かしますよ」とその先の時間に生じることを本人が想像できるようにかかわる必要があります。
認知症だから、障害があるから動けない、それは一つの理由になるかも知れません。でもほんの少しの動きを認めてもらえない、介護者のペースで介助され自分の身に起こることを想像することが許されない状況、つまり可能性を奪われることによって、動けない人にされてしまうのです。
その人にある可能性を想像できる、信用する態度は大切な介護技術です。