言葉をくれた「国語辞典」
「仕事はたのしいですか?」
「はい、とってもたのしくやらせていただいています」
「そうですか。それは何より。少々意地悪な質問をしますが、〔たのしい〕の漢字はどれですか?」
「???」
「〔たのしい〕って書ける漢字が3つあるでしょ。ひとつは喜怒哀楽の楽、ひとつは愉快の愉、ひとつは娯楽の娯。〔たのしくやらせてもらっています〕の〔たのしい〕は、どの漢字をあてますか?」
「えっ、そんなこと考えたこともないです……」
突然ですが、僕の小学生の頃の友達は「国語辞典」でした。
校舎の裏で誰にも見つからないように、先生がコソッと教科書と一緒に手渡してくれた小さな分厚い国語辞典です。
本なんて漫画本も含めて、買ってもらえる余裕のない家で育ちましたし、当時根暗だった僕は、よく一人で国語辞典を眺めていました。
僕にとって国語辞典は、勉強のために字を調べ、言葉を調べるために使うというよりは、パラパラめくって面白そうな字や言葉に出くわすと、その辺りを眺め、そこから展開して言葉探しができるツールでした。
いわば、「遊び相手」ですね。
新しい言葉の旅が始まる
そんな国語辞典を遊び相手にして、言葉に好奇心を持つ僕が就いたのは、介護の仕事。
この介護業界では、「お年寄りには優しく接しなさい」「痴呆性老人、認知症の人」「リハビリをする、リハビリに行く」「介護・支援、援助・介助」「在宅・居宅・自宅・施設」「地域と連携」「家庭的」「寄り添う」など、日常生活ではあまり使わない言葉に出会いました。
この聴き慣れない言葉に、僕は「不思議な言葉の旅だな、介護の仕事は」と思い、子どもの頃の遊び相手だった国語辞典に加え、今度は仕事のパートナーとして「広辞苑」を仲間にしました。
このようなこともあってか「和田さんは、言葉にものすごくこだわりますよね」とよく言われます。
どちらかと言えば、言葉にこだわっているというより「不思議なこと」への好奇心から、言葉の意味を探り自分なりに考察して遊んでいるって感じですかね。
違和感を追求してみよう
僕は、自分が特殊な思考をしているとは思っておらず、「思考を言葉にしているだけ」だと考えています。
ただ、「耳から言葉が入ってくるときはひらがなで、必要に応じて脳で漢字に変換される」という思考なので、おのずとひらがなに当てはまる文字を探してしまいます。
事実例で言うと、関西に住む方の多くは脳内で「あめ⤵」は「雨」に変換され関東に住む方の多くは「飴」に変換されますね。関西だと「あめ⤴」が「飴」なんですよね。
例を一つ挙げると普段、介護保険制度に基づく介護事業の運営に携わっていると研修会等で「りようしゃほんい」という言葉や「利用者本位」という文字を見聞きするかと思います。
僕の中で、耳から入ってきた「りようしゃほんい」の「りようしゃ」は、脳で「利用者」に即時変換されましたし、目にした文字が「利用者」であることにまったく違和感はもちませんでした。
でも「ほんい」が「本位」という文字になっていたことには、とっても違和感を持ちました。(ちなみに、介護保険事業で一律画一的に「利用者」と表現することや介護事業を「サービス」と言っていることにも違和感を持っています)
なぜ違和感を持ったのか。それは、「ほんい」の文字が一般的に日常生活で使われる「不本意だ」の「本意」という文字ではなかったからです。
「利用者ほんい」には、どの文字を当てるか
僕は、学生時代から政治というより選挙に興味があり選挙ポスターをよく見ていましたので、ポスターのスローガンで「国民本位の政治を」というように「本位」という文字は目にしていました。日常生活ではほぼ見かけない文字ですよね。
逆に、僕は当時から「国民ほんいの政治を」に「本意」という漢字を使わないことへの違和感はなく、むしろ「〔本位〕を使うのは当たり前」だと思っていました。
広辞苑によると、「本位」は「もとの位。基本とする標準。中心になるもの」という意味。
それに対して「本意」は「もとからの心。本来の意思。まことの意味。本来あるべきさま」で、まさに個人の意思を表す言葉です。
「集団処遇から個別処遇へ」が叫ばれ、個別ケアを重んじ始めた時期に介護業界に入った僕からしたら、措置から契約(保険)に制度を移行して、さらに「個」を重んじようとしている中で、「利用者本意」ではなく「利用者本位」が大きく聞こえてくる状況に「なんで?」と疑問を持たざるを得ませんでした。
個人の意思に重きを置くなら「利用者本意」を使う方が適切なはずなのに、なぜ「利用者本位」を使うのか。
併せて、利用者の本意だけを叶えることに生活を支援する専門職としての「専門性」を感じませんから、「本意」と「本位」への僕の好奇心は尽きません。
みなさんは、この言葉の違い、気になりませんか?