東京のある病院で、ボランティアの方々により運営されていた、障がいを有した子供から大人までの「集まり」(今でいう共生型デイーサービスかな)がありました。
そこに参加していた障がいを有した方が、あるとき「生涯に一度でいいから列車に乗って旅がしたい」と語ったことがきっかけとなり、そこに集っていた国鉄で働く方などのボランティアたちから「それは、何とか実現しよう」と声が上がり動きが生まれ、それを1982年に実現した取り組みがあります。
ボランティアを中心に実行委員会が組織され、最初は「通常の定期列車に乗って目的地まで行こう」程度に思っていたそうですが、
街灯で募金活動をするなどの行動を通じて参加希望者が増えに増え、通常の定期列車に増結する(車両をつなげて増やす)ことでも「こと足らず」の状況にまで広がり、ついには臨時の特別列車を仕立てるに至り、350人ほどを乗せた列車が上野駅から日光駅まで走ることになりました。
その列車は「フレンドシップトレインひまわり号」と名付けられ、そのヘッドマークがついた列車が走ったことがメディアで大きく取り上げられ、テレビで放映されたこともあり、翌年には全国各地から「我が町でも走らせたい」との申し出があるなど大きな反響を呼びました。
当時僕が住み・就労していた町でも、病院関係者を中心にした実行委員会が結成され、僕が所属していた組織にもボランティアの協力要請が届き、大先輩から「和田、これに協力してやれ」と指示があり、20歳代の男ばかり20名ほどを募り、この列車に乗り込むことになりました。
「ヘーッ、これ、車いすって言うんや」
「知的障害ってなんや」
鉄道や列車以外のことは何もかもが初耳・初触れ・初体験だらけで、とても新鮮な気持ちになったことを憶えていますし、「列車に乗ったことがない車いす状態の人」と「鉄道を本業として車いすに触れたことがない僕ら」が手をつなぐことで、「ないないコンビ」が「あるある社会」を生み出せることの面白さを感じた取り組みでもありました。
次代の切り拓き
当日の夜、実行委員会が開かれ、そこにお誘いいただき、僕としては「うちの連中」と打ち上げで飲みに行きたかったのですが立場もあり、やむなく参加させてもらいました。
だまって聞いているだけの参加者で終わろうとしていたのですが、最後の最後に「和田さんはどう思われましたか」と言葉を求められ、やむなく参加した僕だから軽く「良かったです。楽しかったです」程度で納めておけばよいものを、
生意気な僕は「列車の旅は、国鉄という鉄道業で働いている僕らの仕事。障がいをもっている人たちが列車に乗れないなんて初めて知ったし、誰もが列車に乗って旅ができるようにしなあかんと思いましたし、これは僕らがやるべきこと」と発言してしまったもんですから、ではお願いしますと実行委員会の要職に指名され、底なし沼にはまってしまいました。
でもそのおかげで、国鉄で電車修理の仕事をしているだけでは知り合えない障害をもった方やその親御さんたち、全く知らない組織の方々などとの関係が広がり深まっていき、何よりもものの見方・考え方、社会のゆがみを考える機会を得、次代の僕につながっていくことになりました。
当時は、障害を持っている方自身が「わが身を世間にさらしたくない」「使えるトイレがない」などの切なる理由で外に出ようとしない時代だったようですが、年に一度、顔も名前も知らない者同士が普段乗れない列車に乗り込んで楽しい一日を過ごす「この旅の参加者が見せた生き生きとした姿」への反響は大きく、同じヘッドマークが取り付けられた列車が日本各地で走ることとなり、
それが社会に風を吹かせたと思っていますし「次代を切り拓いてきた列車」だと今でも誇らしく思っていますし、かかわりを持たせていただいたことに感謝しています。
ノーマライゼーションの実感
全国各地で取り組む仲間の集まりをもつようになり、各地の取り組みの様子が報告され、リアルな話がたくさん聞けるようになりました。
たとえばあるデパートに行ったときの話では、「ここには車いすの方が使えるトイレはありますか」と案内の方に聞くと、「申し訳ありません、当館にはないんです」とその時は言われたのですが、しばらくしてデパートから「車いすの方が使えるトイレを設けましたので、ぜひお越しください」と連絡が入ったそうです。
またある観光地では、「有名な観光地である我が町に障害をもった方々が使用できるトイレがないのは由々しき事」とばかりに街中にトイレを設置した町があったという話もありました。
僕のおひざ元であった国鉄でも、駅員がもつ手帳に「車いすの取り扱い方」「車いす利用者の階段昇降の仕方」などが載るようになりました。
列車の旅の運動が中心ではありましたが、実行委員会によっては「車いすで街の探索」と称して町のバリア調査をして行政に報告し「障害ある者にも住みやすい街」の実現につなげるなど、「国連・障害者の十年」の取り組みとも相まって、
当時僕が知った「ノーマライゼーション(どのような障害があろうと一般の市民と同等の生活と権利が保障される社会がノーマルな社会であるという考え方)」の広がりを時間の経過とともに実感することとなりました。
先日、混んでいる東京の電車に「電動車いすの方」が乗車されていて、その方が目的の駅で降りる光景を目にしましたが、周りの方々の「普通感」も伝わって、なんだか泣けてきました。
僕のモノサシ
しかも、誰かにしてもらうのではなく障害を有した方自身が意を決し行動したことが「社会に響き・社会に風を吹かせ・社会を動かしている」こと。それを「楽しいコトを通じて生み出している」という経験は、介護業界にステージを移した僕にとって「ひとつのものさし」にさえなりました。
介護業界に入った直後に「認知症の状態にある人たちを建屋の中に閉じ込めていては、社会は動かないし変わらない」と思い、その後の介護職和田行男の実践の中で、認知症の状態にある人たち自身が街に繰り出せるように、地域社会の中で一般市民とともに暮らしていけるように支援することに取り組んできたのも、その成功体験が「根っこ」にあるからです。
だから山の上に施設をつくってそこに認知症の状態にある人たちを集め「これが認知症ケア」とばかりに語る方に「あなた方は何をしたいのかがさっぱりわからない」と言わせていただきましたし、
身体を拘束することには罰則まで設けて廃止を推進しているのに、建屋に鍵をかけて閉じ込めていることにはモノを申さない現状にアクションを起こすことなく、基本的人権が謳われた認知症基本法の成立を絶賛している人たちにも首をかしげてしまうんです。
でも、介護業界に入れていただいて37年経ちましたが、認知症の状態にある方々を取り巻く環境・日本社会は決して悪い方向に進んできたわけではなく、その象徴としての認知症基本法施行は、認知症の状態にある方々・なるかもしれない自分や国民にとって、力強い応援団ができたと思っています。