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認知症対応型ナースへ

老人福祉法に認知症の状態にある方が住まうグループホーム(当時:痴呆対応型共同生活援助事業)が制度化され、東京都初のグループホームが1999年3月に立ち上がり、そこの施設長をさせていただくことになりましたが、そのグループホームの運営法人に看護学校があり、その学校からの実習を受け入れることと学校での講義を受け持つことになりました。

 

自ら入居者にかかわるな 入居者から興味・関心をもたれろ

僕は、これまで介護事業所に実習に来る人たちを見ていて、きっと学校での教わりが「自分から積極的に利用者にかかわろう」だったのではないかと思うのですが、利用者に一生けんめい自らかかわっていく実習生の姿を見てきて、それに違和感をもっていました。

だから、看護学校の実習生たちにはその違和感を伝えたうえで

「自分たちからかかわるのではなく、グループホームに暮らす入居者たちが皆さんに興味・関心をもつように振舞いましょう。例えば、真っ赤な服を着てくるなど知恵を振り絞ってみましょう」

「興味・関心を持たれるまで待ちましょう」

「興味・関心を持たれたら、そこから入居者との会話を始めましょう」「相手の名前を聞く前に、まずは自ら名乗りましょう」

と実習オリエンテーションで伝えました。

すると、実習生たちは自分なりに興味・関心をもたれるための工夫を凝らして実習に挑んできました。

僕が言った通りに真っ赤なワンピースを着てきた実習生には、入居者たちがくつろいでいるリビングに案内し、「そこの椅子に座ってお待ちください」と、さも僕を訪ねてきたお客様のような場面にして座ってもらいました。

最初は「誰なの、この人」って感じでしたが、しばらくすると、「お姉さん、きれいなお洋服ね」と入居者たちから声がかかり、その後は、その服についてあれこれ談話が始まり、すっかりその空間に馴染んでいました。

カラフルな女性雑誌を持参してきた実習生は、リビングに入って「こんにちは」とご挨拶をした後、椅子に座ってその雑誌を読み始めました。すると入居者たちがその雑誌に興味・関心を寄せ始め、自分の方にチラチラ目をやってくる様子を見て「一緒に読まれますか」と声をかけました。しばらくすると、女性誌のファッション写真の話で盛り上がっていました。

男性の実習生は、僕が「破れたジーンズは関心をもたれやすい」と話したことを憶えていて、破れたジーンズをはいてきたところ、入居者から「あらあら、破れているじゃないの。縫ってあげようか」と声をかけられていました。

 

泣き出す学生たち

やがて、実習生たちに泣き出す人が続出。理由を聞くと「血圧を測らせてもらえないんです。看護学生として血圧さえ測らせてもらえないなんて情けないです」と。そこで、血圧測定する様子を見ていると・・・。

「血圧を測らせてもらっていいですか」

「要らないよぉ」「大丈夫」

「身体の状態がわかるんですよ。健康チェックです」「お身体のためなので」

「どっこも悪くない」

と断られていました。

どこも悪くないと思っている人に血圧測定を進めてもうまくいかないのは当たり前です。

「あんな、みんな。学校の授業で、血圧測定をする前に血圧を測らせてもらっていいですかと聞いてから測定するように教わってるやろ」

「ハイ」

「だから上手くいかないんだよ」

と講義で伝え、次に来る実習時に血圧測定の様子を見てもらいました。

僕は、血圧を測らせてもらう前に確認も説明もしません。世間話をして頃合いを見て腕にベルトを巻きつけ空気を送り込むことを川の流れのように行いました。もちろん、血圧のことを認知症になる前からずっと気にしている方は別ですが、血圧に関する話なんて全くすることなく測定を終えます。

血圧測定をする前に本人に説明し同意を得て実行することは基本でしょうが、誰にでも同じように教条的にやるのではなく、相手に合わせていくことを実習生たちに伝えました。まさに実際を見習う=実習です。

少し前の話ですが、コミュニケーションをとるのが難しい入居者を病院受診に連れて行ったとき、最初に血圧測定にきた看護師には測らせず、それに代わってやってきた看護師にはスンナリ測らせていました。
その看護師は僕と同じようにニコニコしながら言葉をかけて近寄り、少々世間話で入居者を笑わせながら測定に入ったのですが、「上手い!」「よくわかってらっしゃる」「まさに、認知症対応型看護師だ」って思いましたもんね。

 

当たり前のことが書かれている教科書に違和感を持て

講義では試験をしなければならず「記述式の試験がいいか、選択式の試験がいいか」と看護学生たちに問うと、当たり前のように「選択式でお願いします」と答えられました。そうなることはわかってはいましたが、僕は「あんな、俺をいじめてるのか。選択式にするということは教科書を読まなあかんってことやん。しょうがない、最初から読むわ」と笑いながら言い、読んでみました。

そもそも僕は不謹慎な講師で、教科書も読まずに講義を続けてきたのですが、読んでみてわかったことがあり、試験が終わった最後の講義で「みんなが選択式を選択したからしょうがなく教科書を読んだけど、ここにはいいことが書いてあるなぁ」と、その理由について話しました。

「この教科書に、こういうことが書いてあります。痴呆性高齢者を人として捉えることが大事だと(痴呆性高齢者の痴呆性は現在の認知症)。しかもそれが見出しになって太文字になってるんやけど、なんでや?」
学生たちは「人だから当たり前のことではないでしょうか」「当たり前のことだから強調しているんだと思います」とみんな口々に言います。

「みんなが言うように当たり前のことなんやけど、当たり前のことを何で見出しにしてまで書いてるんや?」

誰もそれには答えられません。

「あんな、みんなの先輩たちが人として捉えてこなかったからやろ。この教科書にはいいことが書いてあるけど、これまでの歴史が書かれていない。人として捉えていなかった時代があって、それは間違っていたんだと書けば、人として捉えるという当たり前のことの意味が伝わるのに、その一番大事なことが書かれていない」

と、人として捉えているとは思えない具体例をあげて伝え、今でもその現実があることも伝え、「当たり前のことが書かれているのはなぜ?」と考えられる看護師になってもらいたいと話しました。

 

普遍性への挑戦

「みんなは次の時代のひと。看護・介護の世界を変えていかんとな。世の中を動かしていかんとな。障がいを有していようが認知症の状態になろうが人として普遍やで。僕が伝えたかったことはそれだけや。忘れたらあかんで」

学生向けであれ、一般市民向けであれ、専門職向けであれ研修会や講演会で伝えさせてもらっていることは、いろんな話はしますが、ただ一点です。

それは、少なくともこの国では憲法の基本的人権によって生まれてから死ぬまで、どんな状態になろうが「人として普遍だ」ということで、僕の実践は、そこへの挑戦だということです。

介護の業界に身を寄せた37年前から見て、世の中の流れはその方向に向いてきていることを実感していますが、読者の皆さんはどう感じていらっしゃいますか?

 

ベトナムの老人ホームでは、当たり前のように「くくりつけられている人の姿」がありますが、かつて我が国も同じで、多くの方々の闘いによって今があることを忘れてはなりません。

 

和田 行男 さん

1987年、日本国有鉄道から介護業界へ転身。1999年には、東京都初となる認知症高齢者グループホーム「こもれび」の施設長に就任した。