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健達ねっと>マガジン>羅針盤>和田行男>我が商品力

我が商品力

「モノ・コト」をお金に交換する社会

生み出した「モノ・コト」を商品として売り、それをお金に換えて生計を立てる。それが、この国の仕組みの基本となっていますね。

生み出す「モノ・コト」は、農業従事者は米や野菜、漁業従事者は魚類、工業従事者は工業製品、学者は学問、漫画家はマンガなど多様ですが、いずれにしても「人が生きていくうえで必要とするモノ・コト」を生み出し、生み出す「モノ・コト」は違いますが、それをお金に換えて生計を立てていることに違いはないでしょう。

その「モノ・コト」を「商品」としたときに、働く人が売る「モノ・コト」は何かと言えば「働く人の能力」であり、「能力は働く人にとっての商品」と言え、「我が商品力」を高めていくために「できないことはできるようになろうとする」「資格を取ろうとする」などに挑み、少しでも高く買ってもらえるようにしますよね。

今回の介護保険制度改定は、まさにその考え方で「できることが多い、求めることに応えたなら高い介護報酬にする」というように組み立てていますが、それはおかしな話ではなく当たり前の事です。

 

また、いくら高めても機械化などにより、そもそも不要になるモノもあります。

例えば、僕が国鉄で働いている時代は、駅の改札口(入口)には国鉄職員が立っていて、お客さんが購入した切符を切り(鋏を入れる)、定期券を確認していましたが、それも昔のこと。今はほとんどが自動改札へと機械化され、改札の仕事がなくなり改札員は居なくなりましたからね。

 

介護事業従事者にとっての「モノ・コト」とは

では、介護に従事している者が売る商品は何かです。

何を売って、誰に買ってもらってお金に換え、生計を立てているかと言えば、一言で言えば「介護する能力を、介護を要する人(以下 利用者)に売っている」ということになり、それで給与を得、そのお金によって生計を立てているということになります。
それが正しいかどうかは脇において、そういうものの見方で「職業人としての介護」を思考すると、まったく違った見え方になります。

 

よく受ける質問に「入浴を拒否される利用者への入浴のさせ方についてアドバイスを」というのがあります。

これを「商品」の「売り買い」から思考し考察すると、入浴のお誘いをした介護従事者にとって「入浴への誘い言葉や態度、醸し出す雰囲気、それまでの関係性構築具合」といったものが「商品」ということになり、お誘いしたのに入ってもらえないという現象は、利用者に「商品を売りに行ったけど買ってもらえなかった」ということになり、結論は「商品力が悪かったから買ってもらえなかった」ということです。

 

売る「モノ・コト」は商品 商品は買ってもらえる「モノ・コト」でないと淘汰される

大事なことは、ここからです。

よく「入浴拒否」という言い方をされますが、僕には「利用者が入浴を拒んだ」「自分の商品力に問題はないのに利用者が買おうとしない。買わない利用者が問題だ」と聞こえてしまいます。

自分は「そんなつもりはない」ともよく言われますが、ならば言い方が正しくないということで、僕的に「正しい言い方」をすれば「入浴を拒まれた」「自分の入浴の誘いを受けてもらえない方への誘い方についてアドバイスをください」となるはずです。
それを先の言い方に変換すれば「自分の商品力に課題があるのか、買ってもらえない。買ってもらうためのアドバイスをください」となり、「入ろうとしない利用者」ではなく「上手く誘えない自分」という捉え方になり、「上手く誘えないことが課題」として明確になりますから、次に進んで行けます。

 

世間では売れないモノ・コトは在庫になり閑古鳥が鳴きやがて破綻しますから、買ってもらえない理由を分析して、その分析から次に買ってもらえるモノ・コトを生み出そうとします。それが職業人であり専門職でしょう。

自分自身が「上手く誘えない=商品力の低さ」を知れば、そう捉えられれば、これを職業にしている限り、そのままにしていたら生き残っていけませんから「なぜ、自分の誘いは上手くいかなかったのか」を分析し、他者の誘い方から学ぶことも含めて思考し試行へとつなげ、その成果を確かめようとすることへと展開できます。

でも「利用者が入ってくれない」と利用者の側に課題をかぶせているだけでは破綻するだけで、破綻することを恐れれば、上手くいかない利用者から遠ざかったり無理やり入浴させたりという結果になるのではないでしょうか。

 

オーダーメイド商品が必要

「どうしても入浴の誘いが上手くいかないんです。何か良い方法はないでしょうか」

仲間内で集まった時のこと、ある介護職員さんが「自分が一緒に入ったことでお風呂に入ることにつなげられた」という話をし、それを聞いていた別法人の職員さんが「よし!」と自分も試みたそうですが、結果は上手くいきませんでした。

そりゃそうです。商品を同じモノ・コトにしても買う方(利用者)が違うわけですから、上手くいかなくてもおかしくはありません。

僕らの商品は、利用者個々人のその時その瞬間に合わせてオーダーメイドすることが必要で、大事なことは「自分も一緒に入る」という商品そのものではなく「なぜ一緒に入ろうと思ったか」「何に気を配ったか」など商品開発の観点で、それを掘り下げて聞くこともなく同じ商品を生み売り出しても上手くいくはずはありませんし、上手くいったとしても「たまたま」で止まってしまい、その次の場面や別の利用者へと展開できないでしょう。

 

声掛けなど全てが「商品」と捉える

利用者に直接かかわっていたとき、自分が利用者に出す声の大きさ・トーン・スピード、言葉、態度・立ち居振る舞い・表情、距離など、すべてのことを商品として捉え、その商品力を磨いて買ってもらえる確率をいかにして引き上げるか、それをその時々に思考・実践・分析・情報ストックすることが楽しくて仕方ありませんでした。

それが初対面で何の情報も関係性もない利用者でさえ買いたいと思ってくれる・買ってくれる商品力を自分がもつ、それをひたすら追求していくという考え方がとても大事だと思いますが、いかがでしょうか。

 

こういう話をすると「そうか、だから上手くいかなかった理由を考えることが必要なんですね」と言われるのですが、僕は上手くいったことも「なぜ、上手くいいったか」について執拗に省み脳にストックします。

その理由は「たまたま上手くいった」をゼロにしたいからなんですが、自分の中ではこれを極める前にマネージャー職になってしまい、それが「介護職 介護福祉士 和田行男」の心残りになっています。

 

商品力の向上へたゆみなき追求を

国民から強制的に税金や保険料を収奪して介護保険制度は成り立っており、その制度で生計を立てている介護保険事業従事者である僕らは、国民に還さないと仕組みとして成立しません。

ただ「預かってくれる・引き受けてくれる介護事業従事者だからありがたい」と思われているだけでは悔しい限りで「さすが、専門職は違う!」と感嘆される専門性をもちたいと思うかどうか、それが追求への源になると思いますが、
国民が望んでいるのは「拒まれたことを源に入浴の誘い方を追求しようとする者」なのか「拒んだ利用者に止めて追求しようしない者」なのか、その答えは、僕らが消費者として「モノ」「コト」に求めていることから思考すれば、おのずと答えは決まってくるでしょう。

 

どの業界も「より良くさらに良く」へ商品力を向上させていくでしょうが、僕らも同じで、今時点の自分に留まることなくたゆみなき追求をする「そのことそのもの」が専門性と言え、勤務に就いたその瞬間から「利用者支援にあたる自分」は自分自身の「商品」であり、その支援力=商品力を引き上げていくことが社会的に求められている専門職でもあるんですよね。

僕は、この記事を書きながら「和田さんにとっての専門性とは」と聞かれれば「果てしなき追求心」と答えられるように、これからも精進していかねばと決意新たにしました。

 

北海道や東北を除いて、各地で桜が満開となり人々の気分を高揚させてくれています。でも、それもつかの間、満開の桜はやがて舞い・散りますが、僕は「散り始めた頃・桜吹雪」が大好きです。
毎年同じように咲く桜ですが、前の年と同じように見えても同じではないはずで、時間の積み上げと共に少しずつではあっても変化しているんでしょうね。学ばねばです。

 

和田 行男 さん

1987年、日本国有鉄道から介護業界へ転身。1999年には、東京都初となる認知症高齢者グループホーム「こもれび」の施設長に就任した。