ホーム

認知症を学ぶ

down compression

介護を学ぶ

down compression

専門家から学ぶ

down compression

書籍から学ぶ

down compression

健康を学ぶ

down compression
健達ねっと>マガジン>羅針盤>和田行男>「認知症になりたい」その真意と今

「認知症になりたい」その真意と今

認知症を目指すぞ!

20年近く前、2005年頃だったかと思いますが「認知症になりたい」と思って頑張った時期がありました。皆さんにお話しすると「エーッ!」って驚かれますが、本気で「認知症の世界」を変えたいと考えていた当時の僕なりの僕にできる戦略があったからです。

 

僕が人前で認知症のことを語らせていただくようになったのは、介護保険制度施行前1990年代にホームヘルパー2級講座の講師をお受けした時からです。

 

今は認知症と呼称されていますが当時は「痴呆症」と呼称していて、痴呆の「痴」や「呆」のもつ言葉の意味を受講者に伝えさせていただき、「ばかげたことをするという意味の痴呆で呼称するのはおかしい!」「痴呆に老人をくっつけて痴呆老人・痴呆性高齢者=ばかげたことをする年寄り呼ばわりするのはおかしい!」と教科書に逆らって伝えていました。

 

同時に「嫌なことをされたら怒り抵抗する」など、人として当たり前に起こす行動を「暴力・暴言・大声で叫ぶ・介護に抵抗」などと問題視することや、何でもかんでも脳の病気によるものという捉え方をする学問に異論を投げ、皆さんにお話ししていました。(今は、何でもかんでもBPSD「症状」と捉えることに異論を投げかけています)

 

その後、グループホームの施設長をさせていただき様々な専門職向けの研修会や市民講演会で講師を務めることが増えましたしメディアに登場する機会が増えましたが、ずっと同じことをお伝えしていました。

でも、いくら僕が吠えようが「やんちゃな介護福祉士が吠えている」「変わったことを言う介護職」程度にしか思われていないことを痛感していました。

 

話は脱線しますが、当時の僕は破れたジーンズ・Tシャツに下駄履き、ギターを抱えて歌うことから人前で語っていましたので、皆さんの感想文に「あの格好は講師として失礼」「言葉遣いがひどい」と書かれ、「あなたはわざとわかりにくい言葉で話しているでしょ」と仲間から言われたほどでしたから、耳を傾けてくれないのも致し方ありませんがね。でも、それが僕なりの戦略でした。

 

ただ、認知症検査に使われる長谷川式簡易スケールを世に出した世界的権威者である医師(故人)は知り合ってからずっと僕の言うことに耳を傾けてくれていましたし、
2003年に「大逆転の痴呆ケア(中央法規出版社 廃刊)」という本を出させていただき、著書の中でも「痴呆の呼称はおかしい」と書かせていただいたところ、それに呼応してくれたかのようにその医師たちが立ち上がり、2003年に国は「痴呆呼称検討委員会」を立ち上げ痴呆症から認知症に呼称変更しました。

 

僕は、その委員会に参考人としてお招きいただき「痴呆はおかしい!」と持論を述べさせていただきましたが、検討委員会の議論を経て「痴呆は侮蔑的」ということで「痴呆症」の呼称は消え去り「痴呆老人=ばかげたことをする年寄り呼ばわり」に終止符が打たれました。

ただ、呼称は変わっても、それ以上に変えていかなければならない「ばかげたことをする人扱い」が大きく転換することはありませんでした。

 

認知症の世界は医療が学問をリードしているため「介護福祉士」の肩書だけでは弱いと考えた僕は、いっそ認知症になって「認知症の介護福祉士」の称号を得ることができれば、僕の言っていることに少しは耳を傾けてもらえるのではないかと考え、認知症になることを目指すことにしました。50歳前後の頃です。

当時、認知症の状態にある方の推計数は140万人だったかと思いますが、その称号を得て140万人を結集する組織をつくって本人の側から「認知症の世界」を変える方が近道だと本気で考えたのです。

 

認知症対応友人366人づくり

当時の僕は認知症になった暁のことも考えて、独身だったこともあり認知症になった僕のことをサポートしてくれるコーディネーターを一人決め、365人の友だちづくり(合わせて366人ですからうるう年にも対応できる)に励むことにしました。

 

24時間365日「僕が生きる姿を生み出している脳」が病気になるということは、いつ・どこで・何が起こってもおかしくない状態になるということですが、その状態に対応できる「公的な仕組み」をつくることは、当時の僕も今の僕も不可能と考えていて、年に万人の単位で行方がわからなくなっている現実がそれを証しています。

 

つまり、自宅での生活を続けていくために「公的な仕組み」は間尺に合わないと判断している僕が目指すべき道は「1年に1日だけ僕のために動いてくれる人づくり(支援者づくり)」であり、それをコーディネートしてくれる人に委ねておくことが欠かせないと考えていましたし、
本気で認知症になろうとしていた僕にとって且つ、全国組織をつくって活動するためには不可欠なことだと考えてのことです。

 

ゆきお、どうやったらなれるんや

その数年前、1990年代半ばのことです。

当時の僕はデイサービスセンターで働いていたのですが、どういうわけかふと「特別養護老人ホームで認知症の状態にある方の支援にたずさわれたしデイサービスセンターで自宅生活をしている認知症の状態にある方とそのご家族の支援にたずさわることができている。あと残された未経験は家族の支援にかかわることやな。家族を介護してみたい」と思いはじめ、
帰省した際に「おかん(大阪では母親のことをおかんと呼ぶ)頼みがあんねん、痴呆症になってくれへんか」と投げかけたところ、おかんから「ゆきおちゃん、それどうやったらなれるんや」って聞き返されたんです。流石親子で、投げた僕も僕ですが、受けた母親も母親でしょ。

 

母親のそのひとことは、さらに僕が認知症にのめりこむ旅へ踏み出すエンジンになったのですが、認知症になることを目指すには、認知症を引き起こす脳の病気を目指さないといけないことに気づきました。

つまり黙って待っているだけでは認知症になる確率を上げられないということで、なりたければなるための努力が必要だということですが「認知症になるには」を調べていくと認知症になるのはなかなかハードルが高いこともわかりました。

 

認知症になる努力

認知症を引き起こす病気でもっとも多いアルツハイマー病やレビー小体病など脳の変性疾患群は、今でもそうですが「なぜその病気にかかるのかの原因」がわかっていませんでしたし、原因がわかっていない病気を目指せるはずもありません。

原因となる疾患で次に多いのは脳血管性疾患で、これなら目指せると思いました。

 

つまり「身体に悪いと言われていることをやりまくればり患の確率を上げられる」ということで、しかも「身体に悪いと言われていること」は僕にとっては快楽の世界ですから願ったり叶ったりだと思いました。

酒をたらふく飲み、食べたいものを食べたいだけ食べ、大好きな甘いものは抑制を利かすことなく食べればいいし、面倒な運動をする必要もないわけで「より、好きなようにすればいい。ガマンは不要」ってことですからね。

ただ、後のことではありますが「脳血管性疾患にり患したら必ず認知症になるわけではない」ことはわかっていたことなのに後先考えず突っ走っていた“あの頃の和田さん”に微笑んでしまいました。

 

内服治療は勲章

どのくらいの期間かは憶えていませんが、かなり努力しましたので、当然のように体重は増え続けましたね。

そうこうしているうちに僕の事情が変わり認知症を目指す努力を止めましたが、身体は正直で血糖値が非常に高くなり「和田さん、死ぬよ」と医師から忠告され、それ以降、今でも内服治療しています。毎日、薬を内服するたびにその頃の頑張りを思い出しますし、その意味で内服治療は僕にとって勲章ですね。

 

講演会や研修会で「認知症になりたい人はいますか」と問うと、たった一人だけ手を挙げてくれましたので「認知症になるための努力をしていますか?」と聞くと、どうやったら認知症になれるかをご存知ありませんでしたしなるための努力もされていませんでしたが、誰もがなりたくないでしょうから当然です。

 

これを万人の単位で聞いてきましたが、僕が把握している限り「認知症になりたい」と真面目に口に出した方はやんちゃな介護福祉士の言うことに耳を傾けてくれていた御方だけで、その方には「認知症になりたい」という話をした数年後に「僕は認知症になることを止めたけどあなたは?」って聞くと「なりたくないよ」って、とぼけられました(笑)

 

ただし、その方は本当に認知症になり、認知症の状態になったことを公言し、なってからも活動され多くの人に勇気と感動を与えていましたから、僕なんて足元にも及ばないステキな御方です。

 

グループホームより特養

コ-ディネーターには、いよいよ自宅生活継続が難しい状態になったら「特別養護老人ホーム入居で動いてね」ってお願いをしていました。

その話をすると「なぜ、グループホームではないのですか」「グループホームの方が支援環境は良いってずっと言っているじゃないですか」って言われるし、そう思われてもおかしくないのですが、それはグループホームより特養の方が職員さんの絶対数が多いからです。

では、なぜ絶対数の多い方に入居したいと思っていたかと言うと、グループホームよりも特養の方が相対として「よりどりみどりの環境」だからです(残念ながら正直には書けませんがね)。だから特養でもグループホームに近い造りと運営(人員配置)になっている「個室ユニット型」ではなく「在来型」を希望していました。

 

今は、家族がいるので僕の思い通りにはいかずですが、今のところ「和田さんが認知症になったらみます」と言ってくれているし「ありがたい」と思っていますから「最期まで自宅生活」になるんでしょうね。あくまでも今のところであり未知ですが。

 

追伸

パラリンピックを見ると思うことがあります。

人類は自力で歩けることを取り戻せない状態になっても「補う道具」を生み出し「自力」を取り戻しましたが、道具であれ人の手であれ「補い」を受けることで「している姿(自力)」は「してもらっている姿」よりも僕の心を突き刺します。

けれども「道具代」を払えないばかりに取り戻すことができる「自力」を取り戻せない状況にある人たちがたくさん存在し、その傍らで億の単位のお金が殺人兵器に使われていることに別の意味での怒りが湧いてきてイラつきます。(よって、パラリンピックはチラッとかすめ見る程度です)

ちなみに「道具」をつけた義足選手の100m走世界記録は10秒ちょっとだそうです。すごいですよね。決勝戦だけは見ておこうかな。

 

首都高速からスカイツリータワーを望む8月25日の東京空ですが、黒い雨雲の帯が線状で空を覆っていました。ホント不気味な模様です。二枚目は撮影した角度が違うショットです。

 

和田 行男 さん

1987年、日本国有鉄道から介護業界へ転身。1999年には、東京都初となる認知症高齢者グループホーム「こもれび」の施設長に就任した。