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健達ねっと>マガジン>羅針盤>和田行男>「尊厳を損なわない支援」と「できることを探す支援」への挑み

「尊厳を損なわない支援」と「できることを探す支援」への挑み

僕は、この業界に入らせてもらって37年になり、この間、何人の認知症の状態にある方にお会いさせていただいたか数え切れていませんが、脳に焼き付いて今でも語れる方がたくさんいます。

 

この方たちとの出会いは単なる「運」と「タイミング」でしょうし、この方々やご家族にとって僕との出会いがどうだったのかはわかりませんが、
僕が多くの皆さんに「認知症の状態になっても人生をあきらめさせない支援ができる専門職になりましょう、そんな社会を築いていきましょう」と呼びかけさせていただく際に、大きなお力添えを得ている、常に僕ととともにある「焼き付いている方々」です。

 

スエさん(仮名)との出会い

スエさんの当時の年齢は70歳代でした。

僕は入居前の面接で根掘り葉掘り聞かないので詳細は不明ですが、僕が出会う2年ほど前より「外出されると戻れなくなる」「おかしなことを言う」などの状態が頻繁に起こり、「もう自宅では難しい」と同居家族が判断して入居系の介護保険事業所に入居することとなり、僕がかかわらせていただくことになりました。

 

暮らしの再構築へ

介護保険事業所に転居したら主治医を変えるとのご意向だったので、僕らと「最低限の薬物で対応する」という方向感を共有できている医師につなぎ、医療としては、まずは「薬の見極め」をすることになりました。

僕ら介護事業者としては、入居系の介護保険事業所ですから、目指すべきは「全面的に暮らしを再構築する(組み立てなおし)」ことです。

 

スエさんと昼夜の時間をお付き合いさせていただくなかで、見えてきたことがありました。

 

〇移動は、自力で歩ける 健脚だが自分をコントロールできないようで休むことなくヘトヘトになるまで歩き続ける

〇食事摂取は、自力で摂取できるが、理由は不明ですが途中で食べなくなったり、食物の入った食器を持ったまま外へ出て行ったり且つ、食器ごとそこらここらに廃棄する 投げ捨てる

〇排せつは、自力でトイレに行き着けないのでトイレに入るまでの支援が必要だが、衣類を下げて排せつ行動はとれる 後始末は不十分 衣類を履き切らないまま出てくることもある

〇入浴のお誘いは難しくタイミングが大事だし洗髪は嫌がられる

〇意思疎通は、何を言われているのか言葉が不明瞭で不完全 こちらの言うことは理解できるようだが、会話は成立しない

〇睡眠は、課題はみられない

〇感情の起伏が激しく、笑顔が見られたとしても次の瞬間に怒り顔や怒りの態度に変わる

〇寝ているとき以外、動き回る

〇窓でも柵でも乗り越えて事業所や敷地から出てどこかに行こうとするし行ってしまう 出て行こうとするときは事業所内の貯水槽を腹這いになって掻い潜る 

〇他人を押しのけてでも先へ行こうとされる

〇昼間の時間帯(玄関の施錠を解く9時頃から夕食の18時過ぎ)で5分に一度の頻度で事業所から外に出て行かれる行動を繰り返される

〇掃除を一緒に行うことを促すと実行されるときもあるが、箒を持ったまま外に出ていかれ外を掃きながら移動するといった行動もある

〇外に出たとき付き添った職員を振り切るようにいきなり走り出すこともある

〇他者と交わろうとしない

〇他者が嫌がることを平気でする

〇訪問医による受診は、医師の前に一旦座ることはできてもすぐに立ち上がってその場を立ち去ってしまうなど診察が難しい

〇炎天下であっても上着を何枚も重ね着して歩き回り、水分を勧めてもひとくちふたくち口にするだけで飲もうとされない

 

ざっと思い出しただけでもこういった状態でした。

僕自身は、事前面接の際にお会いし、旦那様から見せていただいたアルバムに貼ってあるスエさんの写真を見て「もう一度、買い物かごをぶら下げて、商店の大将と冗談を言い合いながら買い物しているスエさんを取り戻せるようにしたい」と思い描きましたし、
チームとしてはスエさんの生活支援にあたり「尊厳を損なわない支援」「できることを探す支援」へ挑むことにしました。

 

なにをやってんだ!オレ

日中の時間帯、外に出ていけないように建物に鍵をかけて閉じ込めることは簡単な安全策ですが、人が人を閉じ込めることに疑問を抱いて施設運営に当たっている僕らにその選択肢はありません。

でも、玄関以外のどこからでも外に出ようとするスエさんがケガを負うリスクは高いため、スエさんが建屋や敷地から外に出ようとする通行経路を遮断する手を打ちましたが、それをものともせずはねのけて先に進もうとされイタチごっこ状況に陥ってしまいました。

 

「あれェ、何やってんねやろ」

 

ふと、我に返りました。

自分がスエさんにやっていることが、自分が追求してきた「人権」や「生活支援」といった方向感に矛盾をきたしていることに嫌気がさしたんです。

 

「(役職者)Aさん、ご家族と会いたいので連絡とってアポイントを入れてください」

嫌気がさした瞬間、スエさんのご家族と意見交換をしたくなりました。

 

ご家族には、スエさんのこうした状態の報告だけはしていましたので、介護事業所側から「話がしたい」と持ちかけたものですから戦々恐々でその日を迎えたようです。

 

僕から現状を改めてお伝えしたうえで

「旦那さん、僕らスエさんのフリーな行動を応援したいんです。でも危険(以下 リスク)だらけです。そのリスクを僕らと一緒に背負っていただけないのなら、僕がかかわれなくなったときに今の状態を維持するのは難しく且つ、僕らにそのリスク回避のために建物に閉じ込めるという選択肢がない以上、他の事業者に移り替えていただくしかなくなります。
僕からのお願いは、一緒にリスクを覚悟していただきたいんです。いつ・どこで・何があってもしょうがないと共に思っていただければ職員たちも安心してスエさんを支援していけます。どうでしょうか」

 

ご家族は驚かれました。

というのも、てっきり「面倒見きれないから退居してください」と言われると思っていたようです。

 

取り戻したい姿を共に目指すためのカクゴ

「このままおいていただけるんですか。和田さん、入居させるときにすでに覚悟は決まっていますから、本人のいいようにしてやってください。」

 

「旦那さん、以前見せていただいたアルバムをもう一度見せていただけますか」

「お待ちください」

「旦那さん、僕はこのスエさんの心から笑っている姿を取り戻したいんです。買い物かごぶら下げて市場で買い物する姿を取り戻したいんです」

「私たちも願っています。よろしくお願いします」

「旦那さん、ありがとう、力尽くしますね」

 

ご家族とのこのやりとりは、その後スエさんに嫌な思いをさせずに済んだだけでなく、スエさんの残された人生をどう支えるかについて改めて合意でき、可能な限りではありますが「尊厳を損なわない支援」を堂々と追求できる節目となりましたし、
この時点で、認知症の状態にある方を直接支援する・ご家族と直接やりとりする仕事から遠ざかっていた僕にとっても、自分自身が大事にしてきた「家族と共に」という軸を取り戻せました瞬間でもありました。

 

目指すべき生きる姿の描きとそこに向けた緻密な実践の伝授

また、もうひとつの目標である「できることを探す支援」については、改めてチームで確認をしました。

 

生活に障がいをきたした状態、すなわち要介護状態になった方々を応援する介護保険事業所の社会的な仕事は「生活支援」であり「能力に応じた生活の取戻し(リハビリテーション)」ですから、
要介護状態になるまで当たり前のようにあった「自分のことを自分でする姿」「他者と関係をもって互いに助け合って生きている姿」「社会とつながっていきている姿」を取り戻せるように支援していこう、そのためには「何ができるか・できないか、何がわかるか・わからないか、どう感じているのか」など本人のことを知っていこう、その思考で試行していこうと。

 

同時にこうした姿を取り戻していくには、こうした支援を追求してきた先輩として後輩である職員に「見極める力、手立てを描けるチカラ、それを実行できる力」をつけるようにアドバイスしていかねば、僕一人で「24時間365日いつまで続くかわからない」を支援するのは不可能。

 

後輩職員たちはみな一般的な介護職としての経験はあったとしても、こういう姿を取り戻していくための実践経験がほぼない職員たちなので「入居者のできる姿(成功体験といわれるやつ)」を見てもらわないと机上の空論=理想論として受け取られてしまうし、
目にしないと描く事すらできないし、描けなければ挑めるはずもなく、そこで自分がまずは様々な機会をつくって支援策を試み、その結果をもって職員さんたちも実行できるようにアドバイスしていくようにしました。実に10数年ぶりのことです。

 

手始めに「床の拭き掃除」から試行してみました。

というのも家族との話の中で「掃除が好きだった」と聞いていたからで、まずは「僕がスエさんの前で実施する、それを見たスエさんがどうしようとされるかを見極める、声をかけて促してみる、・・・」ということに挑んだところ、「一緒にしませんか」と勧めると、長くは続きませんでしたが何回かに1回は取り組まれることがわかりました。

 

たった床の雑巾がけのことですが、とっても嬉しかったです。

 

同様に、市場に行って買物をする、喫茶店に入ってお茶を飲む、洗濯物を干す、料理を一緒に作るなど様々なことを日常生活の場面で試みてみたところ、入居してひと月もしないうちに、そうした姿を取り戻すことができてきました。

 

合わせて他者との関係づくりにおいては、突然言葉を荒げてその場を離れてしまうこともありますが職員を交えて他者と一緒に掃除をすることができるようになりましたし、
突然市場から外に出て行ってしまうことも多々ありますが職員や他者と一緒に市場に買物に行くことができるようになりましたし、
店員さんに声をかけようとする姿も見られるようになってきました。

 

お水を入れたコップを目の前に置いても自分からは飲まれず、声をかけると一口だけ口をつけて置き、その場を離れてしまう状態から、僕が試みた「支援の仕方」でコップの水を飲み切れるようになりました。

ずいぶん時間が経ってからですが「支援の仕方と大事なポイント」を伝えていた若い職員がスエさんと喫茶店にいる場面に出くわしたので見ていると、その仕方を実践できるようになりスエさんがコップの水を飲み切ったのを目にして、これまたものすごく嬉しかったです。

 

かかわらせていただく時間の経過と共に、かかわりを持たせてもらうことさえ難しい方ではありましたが、手ごたえを感じるようになりましたし、やがて「目標を達成できる」と確信することができましたね。

 

できること・できないこと 
できるとき・できないとき

スエさんへの支援は、残念ながら試みの中でアクシデントにより左手橈骨骨折を負い、それまでの試みと成果は「出会った時の振り出し以下」に戻ってしまいましたが、
その後、時間の制約はありましたが、スエさんの回復状況を見極めながら、僕とチームは追求し「部分的に成果を出せた地点まで」は取り戻すことができました。

 

スエさんの様子をテレビ番組で見てくれた認知症の権威者である医師と話すことができ「映像を見る限りでは脳の状態はこうじゃないか」とアドバイスをいただくことで、改めてこれ以上の支援は難しいと感じましたし、
僕がスエさんや事業所にかかわれる時間数を減らさざるを得ない状況下でしたから、残念ではあるしスエさんに申し訳なかったですが、その後は、職員さんたちにそれ以上のことを追求することを求めませんでした。

 

それでも介護事業所での生活は、スエさんにとって「フリーな時間」を過ごせた生活だったと思いますし、やがては脳の病気の進行とともに外に出て行くことさえできない状態になってしまい、
医療ニードの高まりとともにご家族のご意向で僕らがご紹介した「医療処置が整っているところに移られ」ましたが、僕の中に今でも生き続けるおひとりです。

 

追伸

爬虫類と魚類400種ほどは「砂の温度で性別が決まる」そうですが、1億年生き続けてきたウミガメが絶滅の危機に瀕しているようです。

その理由は、卵を産み落とす砂浜の温度が高くなって産まれてくるウミガメの90%がオスになっているようで、このままだと2100年~2150年頃に絶滅すると推計されるそうです。

これまで気候変動が起こっても、ウミガメはそれに対応すべく進化してきたようですが、今の変動は人工的で急激であり対応しきれないのではないかとのことで保護活動が始まっていると報道されていました。

ウミガメに限らずヒトも含めて耐えきれますかね。

先日も一人暮らしの方をお迎えに行くと体温が38度手前まで上がっていて、他の症状がみられないので事業所にお連れして水分を摂って涼んでもらうと平熱へ戻ったと報告を受けましたが、いわゆる熱中症の状態でした。10月にです!

ヒトも、気候変動に自力で対応しきれない状態の方への「保護活動」が必要になっていますね。

 

9月17日に東京都とのコラボレーションで開催させていただいた「注文をまちがえる料理店at東京都庁」での定食についた創業500年を誇る和菓子の老舗「虎屋」の特製「てへぺろ焼」です。
虎屋さんとは最初に開催した2017年からのお付き合いで、注文をまちがえる料理店の主旨に賛同していただき、和菓子職人さんたちが心をこめて作ってくださった第二弾の特注品です。

 

和田 行男 さん

1987年、日本国有鉄道から介護業界へ転身。1999年には、東京都初となる認知症高齢者グループホーム「こもれび」の施設長に就任した。