前々号で、「我が家から出るのはなぜか」という観点から「なぜ、我が家に戻るのか」を考察したことを書かせていただき、前号では「人は意味や目的の重い方に行動する特徴をもっている」という勝手説(和田さん的モノの見方考え方)からの考察を書かせていただきましたが、今号でも、このことについて触れさせていただきます。
おせっかいトメさん(仮名)が帰りたいヨネさん(仮名)の優先順位を変える
※画像はイメージです
グループホームに入居しているヨネさん(仮名)は家政婦のお仕事をされていた方で、グループホームに働きに来ていると思っており「洗濯・炊事」など家事ごとが片付くと「終わりましたので、おいとまします」と帰ろうとされます。
また、一緒に入居しているトメさん(仮名)はとても世話好きな方で面倒見のいい方です。
ある日もヨネさんが「おいとまします」と僕に言ってこられたので
「お疲れさまでした。ありがとうございます。お気をつけてお帰りくださいね」
と声をかけ玄関まで見送らせていただきましたが、その際、トメさんに
「トメさん、お帰りになられる方がいますよ。お見送りをお願いします」
と伝えると
「あいよー」
と玄関先まで見送りに来てくださいました。
ヨネさんもトメさんも、同じ時期に入居された方で2年程経っていましたが、どこの誰かは憶えられません。
ただ、顔なじみにはなっているので日常会話は「親しい関係者同士の会話」となります。
「おばあちゃん、気を付けてね」
「お邪魔様でした」
「おばあちゃまは、どちらに帰られるの」
「〇〇です」
「〇〇ってどこなの」
「〇〇ですよ」
「そこは、遠いの。一人で帰れるの」
「大丈夫です、自分の家ですから。そんなに遠くはないですよ。では失礼します」
「気を付けてね。ところで、どこへ帰られるの」
「〇〇です」
このやりとりが延々と続きます。
僕は、時々見に行くようにしますが、世話好きトメさんの「繰り返し会話」に依拠します。
30分くらい会話が続き夕暮れが深まり暗くなってきたころを見計らって、お二人に「トメさん、お食事の準備ができたので、そちら様に食べて帰ってもらってはどうですか」と声をかけました。
「おばあちゃま、そういってくださっているのだから食べていきなさいよ」
「いえいえ、そんな」
今度は、トメさんの執拗な「食事のおもてなし会話」が繰り返されます。
ヨネさんは、辺りが暗くなってきたこと、顔見知りのトメさんの声掛けを無下にできないこと、お腹も空いてきた時間帯であることなど、トメさんのことを振り切って帰る風でもなく戸惑っている様子(写真)がうかがえたので、
機を逃すことなく「お二人とも、どうぞおあがりください。せっかくのお料理が冷めちゃいますよ」とダメ押しの支援策を打ったところ、お二人ともリビングに戻ってこられました。
食事を終え、後片付けを終える頃
「ヨネさん、今日はお疲れさまでした。お風呂が沸いていますので、どうぞ」
「イエイエ、わたしは最後でいいですよ」
「ヨネさん、忙しそうだったのでヨネさんが最後なんです。どうぞ」
「そうなんですか。では、いただきますか」
そう言われると、そそくさとお部屋に行かれようとしたので、ついて行き下着等の支度の支援、風呂場へ向かう支援をすると、あとは「生活の慣(なじみ)」に沿って就寝まで自力で歩まれました。
「帰る」と言われていたヨネさんですが、トメさんからの言葉と状況の変化(環境)により「帰る」よりも「戻ってご飯をいただく」に優先順位が移り変わった結果です。
帰りたいガンさん(仮名)を応援して優先順位を変える
デイサービスに来られていたガンさん(仮名)が、かなり険しい表情と語気で「帰る」と言い出しました。
「こんなとこに居る場合じゃない、家のことがある。帰らせてもらう」
「わかりました、ちょうど僕も出かける予定があるのでご自宅までお送りしましょう。ガンさんのお家の場所はわからないので道は教えてくださいね」
「わかった」
デイサービスから道路に出るときに完全に車を止めて聞きました。
「ガンさん、右ですか、左ですか」
「右」
「わかりました」
次の交差点で止まり
「ガンさん、右ですか、左ですか、真っすぐですか」
「・・・真っすぐ」
「わかりました」
という具合に、交差点で必ず止まって行き先を聞きます。
それを時間にして20分ほど繰り返しましたが、ガンさんにとっては霧の中状態です。
「ガンさん、道は合っていますか」
「・・・」
「ガンさん、どうでしょう、この近くに僕の知り合いのセンターがあるので、そちらで地図をお借りしましょうか。住所はわかりますか(住所が言えることは知っていました)」
「〇〇区〇〇町〇丁目〇番地」
「そこまでわかるのなら、すぐに探せますから」
「そうか、わかった」
ということでデイサービスセンターに戻りガンさんには見慣れない職員出入口からセンターに入りました。
職員も心得ているのでガンさんを見ると
「こんにちは、初めまして〇と申します。どうぞこちらに」
と施設長室にお通しします。
「すいません。道がわからなくなっているので地図をお貸し願いますか」と僕
「わかりました。すぐにお持ちしますね」と応える職員
「ガンさん、良かったね」
頷かれ安堵の表情をされました。そこでもう一言、職員さんにお願いをしました。
「すみません、お茶を一杯いただけますでしょうか」
「ハイ、お待ち下さいね。あったかい緑茶でいいですか」
職員さんが立ち去ると
「ガンさん、これで安心ですね。お茶を飲みながらお待ちください。僕が地図で調べてきますので」
家に帰りつけないで不安いっぱいのガンさんでしたが、お茶を届けてくれた職員さんと談笑し、表情はどんどん緩やかになり「帰る」の言葉は聞かれなくなりました。
その間僕は、デイサービスの送りに出る送迎車の時間を見計らいタイミングよく次の行動に出ました。
「ガンさん、場所はわかりましたよ。ただ、僕が仕事で送っていけないのでセンターの方に聞くと、ガンさんのご自宅の方に向かうバスがもうすぐ出るそうです。そのバスで帰られてはどうでしょうか」
「私たちが送っていきますよ、ご安心ください」談笑していた職員さんが後押しすると
「そうか、そうか、頼めるかな」
ということでいつも通りの時間に送迎車でご帰宅されました。
認知症の状態になっても人であることは普遍
こうした支援は、日本中の介護職たちが実践されていることですが、「人は自分にとって意味や目的の重い方(優先順位)に行動する」を表しています。
また、こうしたことも「支援する者、取り巻く者のことをよく知っている」ことが必要で、僕からのどんな言葉や態度がその方に響くのかを描けることがカギです。
また、施設から外に出て行かれる方には「帰る」など「意味や目的が明確な行動をとること」とは次元の違う行動もあります。
僕の経験では、脳の病気からくる「常同行動」と言われる行動や、「帰る」ではなく「その場から離れたい」に基づく行動などもありましたが、いずれにしても「認知症の状態になっても人であることに変わりはなく=人の行動には理由がある」ということで、
人が生きることを支援する専門職であれば「帰る・帰りたい」は「人の行動」だと捉えるでしょうし、人の行動だと捉えればこそ、その「理由探し」「理由に合った支援」を展開することでしょう。
介護職の専門性が試される時代
施設に鍵をかけて閉じ込めると「認知症の状態にある人たちは外に出て行けない=職員たちは外に出てしまう心配をしない=支援者は理由探し・理由に合った支援を描かない⇒描けない」となることでしょうが、
どんな「事象(起こっていること)」も、その「理由探し」「理由に合った支援」が「人が人として生きることを支援する介護職という専門職」に欠かせない専門性だと考えれば、「帰る・帰りたい」を「帰宅欲求・帰宅願望=行動心理症状」という捉え方をしていては専門性を磨く上で非常にもったいない限りです。
さらに突っ込ませていただくと、「帰る」を病気からくる症状と捉え認知症ケアとして取り組むことは、僕に言わせれば「認知症の状態にある者は人じゃない」と言う捉えをしているとしか思えません。
人は我が家をもち、意味や目的をもって我が家から出て我が家に戻る生き物で、「帰る」は「行動心理症状」なんて他人から扱われる筋合いのものではなく「人として当たり前の行動」ではないでしょうか。
認知症基本法が施行され「認知症になっても基本的人権は享有される」と謳われた今、「家に帰りたい」を実現できない現状であればこそ、可能な限り人権を侵害しない支援策を模索して尽力し続け「介護職の専門性はスゴイ!」と国民の皆さんから感嘆されるようになりたいものです。
※画像はイメージです
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