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健達ねっと>マガジン>羅針盤>和田行男>「見知らぬ景色」を「見たことのある景色」にする支援を描く

「見知らぬ景色」を「見たことのある景色」にする支援を描く

僕ら介護の業界では「地域との関係」「地域との連携」「地域包括ケア」といったように「地域」が普通に使われますが、では「地域とは」を問うと「???」で、何となく使っている方が多いように思います。

僕自身、介護の業界に来る前から地域という言葉を使ってはいましたが「地域とは」を考えるようになったのはこの仕事に就いてしばらくしてからのことでした。

 

「地域とは」が「?」で「地域との関係が大事」を語られても…

グループホームが制度化された草創期、運営指導(旧実地指導)で「もっと地域との関係を強めてください」と言われたことがあり、良い機会なので「すみません、地域との関係における地域って何ですか。何と誰と関係を強めろと言うことですか」と質問をすると明確には答えていただけませんでした。

 

僕は、グループホームに従事する前、1990年代の半ば行政委託で運営されていたデイサービスで仕事をしていた頃に「地域の拠点づくり」という行政マンの言葉を聞き「拠点づくりのために必要なことは何か」を描こうとした際に「そもそも地域とは何か」を考えたのが、この言葉とのお付き合いの始まりです。

 

自分なりに考察した結果、僕が描けた「地域」というのは、古い時代を描いた映画に出てくる「おらが村=私が住む村」「おらが村の者=私が住む村と同じ村に住んでいる者・村の衆」で、「知っている・知られている」という「人と人の相互の関係性がある範囲」のことではないかということでした。

 

逆からの考察で言えば「我が村の者以外の者=範囲の外の者=よそ者」と呼んで「別」を明確にしていたということです。

僕が子供の頃ですから60年ほど前のことですが、夏休みに親戚が住む山深い村に滞在した時、従兄弟に連れて行かれた盆踊り会場で周りの人たちから「どこの者?」と言わんばかりにじろじろ見られたことを鮮明に憶えています。これも、村中の人が知り合いだからこそ「見たことがない者」が成立するということです。

 

スペインのBARで知り合った年輩の方に「泊めて下さい」とお願いしたら「来なさい」と言われ、その方のお宅に行ったときのことです。

遊びに来ていた娘さん夫婦から「どこか行きたいところはあるか」と聞かれ「踊れるところ」と伝えると、そこに連れてってくれましたが、全ての人からじろじろ見られましたし、好き勝手に踊ると「目立つな」と娘婿から強く言われ、早々に連れ帰られましたもんね。よそ者が目立つことをすると危険だったのかもしれません。

 

つまり「地域との関係」「地域との連携」を構築していくためには、自分がまずは「知られること・知ってもらうこと」が必要で、そのためには「行動することが不可欠」だということに考えが行き着きましたので、1999年グループホームを開設するにあたり、次のようなことを描きました。

 

「知らない・知られていない」からスタート

僕が見知らぬ土地に引っ越しをしたら「周りの者を知らない・周りの者に知られていない」からのスタートです。

仕事に行くために使う電車はA方向のA駅ですから、自宅を出てA方向に向かって歩きA駅を使って職場に向かいます。つまり「住まう村」を離れるということです。

 

生きていくために欠かせない食料や日常生活用品を職場の近くで調達すれば「自宅から出る⇒A駅まで歩く⇒職場に向かう⇒職場から出る⇒職場辺りで必要なモノを調達する⇒A駅に戻る⇒自宅まで歩く⇒自宅に戻る」となり、必要なモノを調達する職場辺りに知り合いができたとしても、住んでいる場所辺りに知り合いができる確率は引き上がりません。

 

逆に、欠かせないモノを自宅近くで調達すれば、住んでいる場所辺りに知り合いができる確率は高くなるでしょうし、しかも町内会や消防団・青年団・婦人会など地元の人が集まる組織の活動に参加すれば、その確率はさらに高くなるはずだと考えました。

 

グループホームは入居者の生活の拠点であり、入居者にとっては「見知らぬ土地への引っ越し」ですから、おのずと支援の方向性はこの描きに基づいて展開していきました。

 

日常生活を通して「おらが村・おらの村の者」化

1999年グループホーム開設時には僕の中でまだまとまってはいませんでしたが、その直後に介護保険法に出会い、その「目的」が謳う「有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように」を考察し「介護保険法に支援されて生きる人の姿」を具体的に考えるなかで「人々が生きる姿の三つの共通(基本)=目指すべき入居者の生きる姿とそれに向けた支援」をまとめました。

 

そのひとつに「人々は地域社会とつながって生きている⇒認知症の状態になっても人である限り、人として生きる姿のまま最期まで生きていけるように支援する、だから入居者の地域社会生活を再構築できるように支援する」があります。

 

ここで言う「地域社会」は、僕自身が引っ越した時に「地域社会の一員になるぞ!」って考えて行動するわけではないように、生活に欠かすことのできないさまざまなこと(買物、理美容、飲食、散歩など)を「住んでいる場所辺りで調達行動していれば意識していなくても必然的に知り合いになる確率を上げる」という先述の「描き」の具体化でした。

 

だから、グループホームが存在する場所の近辺で「毎日調達行動を繰り返す」こと、入居者だけでは人と人の関係性を築けないかもしれないため、入居者の行動支援のために「付き添う職員が率先してご近所・行く先々で挨拶をする」ことを徹底しました。

 

開設した当初は季節的に春でもあり入居者の状態把握もありますので、入居者全員と出勤している職員とが午前中と午後、必ず買物に出かけました。

 

午前中は「お昼ごはんの食材調達」、午後は「夕食と翌日朝食の食材調達」が主で、開設当初は住民の皆さんから「何、この人たち」って感じでじろじろ見られていましたが、やがて近隣住民、店主やお客さんの方から「どういう人たちなの」と聞いてくれるようになり、どんどん存在が知られるようになってきました。

 

残念ながら入居者たちは脳が病気ですから「スーパーの店員さん」「こないだ会った人」「隣近所の人」とは憶えきれませんでしたが、やがて「見たことがある人」にはなっていき、自ら会釈する・挨拶するようになれました。

 

脳に焼き付けるための支援

グループホームの玄関を出たら右に向かいすぐの道を左に向かい、最初の交差点は左折、次の交差点も左折、まっすぐ歩いて信号をひとつ渡って左側の小さなスーパーで買物をして、スーパーを右に出て、同じ信号のある交差点を渡り、小さな八百屋の角を右折するとグループホームに戻りますが、これを1日2回繰り返します。

 

脳が病気の状態でない僕や職員に比べると入居者たちは脳が病気の状態にあるだけに、憶えるためには「量(繰り返し)」が必要ですから、同じ行動を繰り返し入居者たちにとって「見たことのある景色」「見たことのある人」となれるように支援します。

 

その後、野菜は本格的な八百屋、豆腐は豆腐屋、魚は魚屋まで買いに出るようになり「知ってくれている人々の範囲」は広がり、だんだんと店員の方から「まいど」「べっぴんさん、元気」などと声をかけてくれるようになり、やがてはお客さんまで声をかけてくれるようになりました。

同時に、寿司は寿司屋に食べに行き、美容院も飲み屋もそうで「行きつけの店=知り合いの店」をつくっていきました。

 

僕が恵まれていたのは、グループホームの近隣に日常生活に欠かすことができないモノを調達できる場があったため住民や商店店員との接触密度を高くできたこと
又、僕らのやっていることをテレビ局が取り上げてくださり、辺りにその番組を見てくださった方がそれなりにいて「見ましたよ」って「声をかけてもらえるきっかけをつくってもらっていたこと」で、それも「知ってくれている人たちの範囲」を広げる・増やすことにつながりました。

 

地域住民の一員として地域社会生活を営む姿の描きが「生きることを支援する」には不可欠

僕はグループホームを立ち上げる前、企画の段階から所在場所の街を下見して歩きます。グループホームに入居する人たちの「暮らしを営む姿=人として生きる姿」を描くためです。

 

食材の調達はこことあそこ、日常生活用品はここ、理美容はここというようにで、麺類屋、寿司屋、居酒屋、焼き立てのパン屋、団子屋、喫茶店など日常生活を豊かにしてくれるであろう処も見つけて「そこで行動する姿」を描きます。

 

こういうことは、特に「買替えしにくいマイホームの購入者」は、その地で生活を営む我が家族の姿を描き、下調べとしてやっているのではないでしょうか。

 

あるグループホームの開設時も近辺を歩き回り、暮らしの様を描いていました。その描きの具体化のため、ある美容院を訪ねて事前のご挨拶をさせていただいたのですが、その帰り、近所にある他社のグループホームの前に「移動理美容車」が止まっているのを見かけました。

 

きっとこういう運営をする事業者における「地域との関係」は、

「運営推進会議(法で定められた会議で住民代表・民生委員・有識者で構成することとなっている)にたくさんの地域住民や関係者を集めること、地域住民に事業所に来てもらって運営を手伝ってもらっていることになるんだろうな。そういや全く入居者の姿を見かけないしなぁ」

「行政や第三者評価機関なども地域との関係が強いグループホーム的評価を与えるんやろなぁ」

と思考が歪んでしまいましたし、

「ここのグループホーム入居者は建屋に閉じこもらされたまま知ってもらうこともなく・知ることもない、要介護状態になるまでとは全く違う特別な生きる姿にさせられているんやろなぁ」

なんて思ったら哀しくなってきました。

 

逆の話として、グループホームの入居者たちが職員に付き添われて買物等で街を歩く姿を見てそのグループホームの存在を知った近隣住民の方が何かと運営に力を貸してくれるようになったのですが、
その方自身が認知症の状態になり要介護状態になった時、その方の同居家族から「自分たちが面会に行きやすい近場の介護事業所に入居させたいのですが、近隣の方に入居させていることを知られたくないので、外に出ない・出さない介護事業所を選びますと言われました」と聞きましたからね。空しくなりますがそれも現実です。

 

僕が「地域とは」を思考し「おらが村」に辿り着いてから数年後、「地域とは共属感情をもつ人々の一定の範囲」と書かれている文章に出会い、これが又、僕の「地域とは」への考察を深めるきっかけになりました。

続きは2025年1月15日にアップさせていただきます。

 

担当編集者の関連実践後記~本稿を読んで思うこと

1行進んでは2行戻ってと、よくよく考えながら読ませてもらいました。

「知られること・知ってもらうこと」すごく共感しました。

ただいま出張中で、偶然にも初めて施設長に就いた施設に寄ったタイミングで原稿を拝読したところでした。

2006年に開設した当初、それこそ地域との関係作りのための行動を思い返していたところです。

知ってもらうために毎朝夕の散歩時にはゴミ拾いをしながら歩いたりと散々活動していたのに、開設から2年経った後に施設の真裏に住む方から「介護施設を探してたらすぐ近くにあったんですね、普通の家だと思っていました」と言われた時は大変驚いたのと同時に、「普通の家と思ってくれていたのは、それはそれでいいのか?」とも思った次第です。

 

追伸

健達ねっとに書かせていただくようになってすでに「25本目」となりました。これもひとえに読者の皆様と編集者の偏見のおかげです。今年最後の記事となります。

本当にありがとうございます。

 

先日、ネパールの首都カトマンズに行ってきました。

ネパールは、国の平均年齢が25歳弱と聞いて驚き、猛スピードで近代化していることに驚きました。いつか、ネパール訪問記を書かせていただきますね。

 

さて、宇宙に生きる地球にとって、その地球に住まわせてもらい生きている人類にとって2024年はどういう年だったのでしょうか。

 

それを検証する術がない僕には「良い方向に向かっている感が持てない年だったのではないか」程度にしかコメントできませんが、
介護事業の全国大会で経営者仲間が顔を揃えたときの決して笑えない裏話題が「外国から日本に向けられている核ミサイルが発射されたときのBCPについて」だったことから察すると、やっぱり良くない方向に歴史は歩んでいるんでしょうね。

 

海外人材とりわけベトナムの方々との関係を築いてきたグループ会社の社長の熱心さに触れ、コロナ前ベトナムにボスと共に初渡航し、日本に働きに来たい若者がたくさんいることを知り「応援しなあかん」と思って技能実習生の受け入れに取り組むようになって以降、毎年ベトナムに行かせていただいています。

 

今年は三度渡航させていただき、今やベトナム北部・中部・南部の都市(ホーチミンは行けていません)、山間地域・農村地域の町や村、リゾート地から最貧困地域と言われているところまで行かせていただきベトナム人の暮らしぶりの一端に触れさせていただきましたが、
そこで感じるのは、国の人口が右肩上がりに増え続ける平均年齢30歳の国と、人口が止まる気配さえなく右肩下がりで減少し続ける平均年齢47歳の国では「こうも違う」かという活気・活力で、「活」の差です。

 

活とは「生きる」ということでしょうから、その勢い(活気)・エネルギー(活力)に「違い」を感じるということですが、日本の政治家たちも「違い」を残しつつも「日本の活・再構築超党派議員連盟」でも立ち上げて、こうした国から学ぶべきところは学んで「改めての国づくり」に取り組んで欲しいものです。

 

知人にこの話をすると「かつての日本はそうだった。だからベトナムもやがては日本と同じ道を辿ることになる」と言われましたが、
「コメを切り捨ててきた日本に対してコメの増産に切り替えたベトナム」「重工業化してきた日本に対して重工業から軽工業重視に切り替えたべトナム」のように、国づくりの方向性に違いがあるようなので、そういった国策の違いを検証できる人たちも含めた「現日本人の総力」で「再構築プラン」を描いて政策化することが、遅ればせながら必要なのではないでしょうかね。

 

僕が生きているうちに「日本国再構築プラン」を見てみたいし、僕も「介護」や「認知症」に関する「再構築プロジェクト(仮定の仮称)」に加わらせていただいて「自分が今あることへの感謝」を形でお返ししたいものです。(大胆に売り込んじゃいました。でも、能力があるかどうかはやってみた結果が出ないとわかりませんがね。ハハハ)

 

良いお年をお迎えいただくには健康が一番

事故や体調管理などお互いに気を付け合いましょう

 

飛行機から見た8000㍍級の山々がそびえたつエベレスト山脈
薄く見えるポツンと高いのが世界最高峰エベレスト山かな
もう少し近くを飛ぶものと思っていましたが、気流の影響を受けないようにしているんでしょうかね
何分にも飛行機の窓が汚くて・・・拭かない国民性のようですがね
それでもワクワクしました。

※画像はイメージです

 

和田 行男 さん

1987年、日本国有鉄道から介護業界へ転身。1999年には、東京都初となる認知症高齢者グループホーム「こもれび」の施設長に就任した。