2025年元旦
今年もよろしくお願いいたします。
2025年が僕にとって皆さんにとって良き年となりますように(祈願)
ロック(69歳)で迎える人生初のお正月。
僕にとってはとても感慨深いお正月となりました。皆さんはいかがでしょうか。
出会いが人生を決める!
小学校六年生の卒業文集に書いたことは今も「ホントにそうだ」と思っていますが、さて、今年はどんな出会いが待っていることでしょうか、ここはいつも通り愉しみにしたいと思います。
2025年
年明け早々に、災害時に勝手に支援しに駆けつける法人ネットワーク「おせっかいネット」の学習交流会が山形県蔵王で開催されます。
東日本大震災を機に、全国の仲間と共に、何かあったら駆けつけ合う「災害支援法人ネットワーク(頼まれもしないのに勝手に駆けつける・支援するので通称おせっかいネット)」を立ち上げて13年目に入りました。
その仲間と年2回顔を突き合わせ、学び合い・語り合い・呑み合い・バカをし合う学習交流会を開催していますが、仲間たちと顔を突き合わせることへのワクワク感もさることながら、今回はオプショナルで蔵王の樹氷見学があるので、ぜひとも参加しようと思います。
というのも気候変動の影響で樹氷化しなくなってきており、このチャンスを逃すと見られないかもしれないからですが、今年樹氷化する保証もなく見られないかもしれない状況ですからね。
皆さんも行ってみたいところがあるなら「〇年先には」なんて「時間がある」と考えているとしたら、自然界の変貌速度に負けて「見たいものが見られない」ということになりかねませんから、今見に行きましょう。ものすごい勢いで変わってきているようですからね。
水の都ベネチアも、陸が残って水との関係がギリギリの処だからステキなんで、海水が陸に溢れたベネチアの街では歩くことさえ儘なりませんから。
春には大阪万博が開幕します。
僕ら注文をまちがえる料理店のメンバーも密かに「西の万博、東の注文をまちがえる料理店」を思案しており、僕らにとって愉しいと思えること、それが社会にとって意味あると思える「コト」にして、超多忙なメンバーながら「バカ力でやろう!」と密かに練っています。
2017年東京六本木で初開催してから8年目に入りましたが、いまだ世界的に取り上げられる「注文をまちがえる料理店」が目指すのは「取り上げられなくなった社会」で、この国ではまさに昨年施行された認知症基本法に合致した社会です。
僕が中学三年生、1970年に大阪万博が開催され何度か見に行きました。55年も前なんですね。
1970年大阪万博は僕にとってはその後大好きになった女性と初めて遊びに行った思い出のところですが、なぜかクラス違い・クラブ違いの「男二人と彼女」の三人で行きました。
大好きだった方とは50年ぶりに再会を果たせましたが、超緊張してロクに話すことができず、彼女と男子の二人はそもそも僕とどういう関係の同級生だったか聞けませんでした。ロックだ!なんて偉そうに言ってますが、子供の頃からの緊張症・小心者はいまだ健在です。
また、久しぶりに出版を計画していただいています。
かねてよりずっと発信してきたコトをまとめるのですが、書くことが苦手な僕がこのブログで宣言することで自分への圧力にして挑みたいと思います。
秋には70歳を迎えます。
今は「人生ロック(69歳)」でサイコーなんですが、あっという間に過ぎ去りそうです。
また、北海道の介護事業に関係するメンバーで組んでいるバンド・カッパーズの「トーク&ライブ(音楽とミニ講演)」が北海道で二本(10月岩見沢・11月札幌)計画されています。
カッパーズは、2013年苫小牧で「初顔合わせ公演」を皮切りに、コロナで3年間ブランクを余儀なくされましたが、仙台や盛岡でも開催していただき13本積み上げてきました。早いもので「干支一回り」の節目の年を迎えました。
昨年11月、苫小牧公演で僕は風邪をひいてしまい声が全く出ず悔しい思いをしましたし、何より来てくれた人に不快な思いをさせたのでトレーニングをして挑もうと思っていますが、どうなることやらです。
すでに「北海道まで行きます!」と言ってくださっている人が出現しているので、これまたそれをストレス(環境圧力)にして励みます。
見ることのない21世紀末(近未来)
こんなふうに2025年のことを書きましたが、それもこれも「生きていればこそ」のハナシ。
いつ死んでも不思議なことではない生物としてのヒトである僕も、その確率が高まる年齢まで生きさせてもらえ感謝するのみですが、そこにいつ殺されてもおかしくない社会が重なってきていますから誰にとっても「生きていればこそ」の現実味は増してきました。
ヒトの学問的限界寿命90歳~95歳まで生きてきた人たちからよく聞く「長生きなんてするもんじゃない。周りはみんな死んでしまって独りぼっち。寂しいよ」は、僕より年齢の低い人たちに囲まれている僕には「当てはまらないなぁ」と思ってはいますが、
僕もヒトの学問的・現実的最大寿命115年~120年まで生きれば「ほんまや」ってことになるんでしょうね。
地球が寿命を迎えるまでヒトが生き残れるかどうかは知る由もないですが、地球の生命まで脅かしかねない核兵器を大量に製造・保持する国が仲良く「核兵器なんて無用の長物」と廃棄し合う社会は到来するんでしょうか。
地球で唯一、核兵器によって多くの生命が奪われた「かの国」が人類に向けて出すメッセージをノーベル平和賞受賞団体「被団協(日本原水爆被害者団体協議会)」に委ねるだけでコト足りる気はしませんが、
原子力発電の恩恵を現実的に享受し、核兵器廃絶に向けて何ら行動を起こしていない自分には、こんなことさえ言う資格がないのかもしれません。
いや、核兵器によって滅びる前に自然破壊によって滅びかねない現実もあるようですから、まずは自分にできることから取り組まねばですが、これまた「自我・欲」を押さえきれずにいる自分ですから、これまた言えたもんじゃないです。
自分が見ることのない近未来に影響を及ぼす今を生きる自分なのに、今の子どもたちにとっての近未来に責任を負う自覚に欠けているってことでしょうが、その後ろめたさが「せめて、ゴミの分別収集」に一生懸命取り組む自分になっている気がします。
子どもの頃、漫画の世界で夢見た21世紀も四半世紀の節目の年を迎えた2025年。
子どもの頃にはなかったモノがあふれかえっている世になり「便利・楽・快」を享受していますが、ヒトの暮らしの営みの基本は何にも変わっていないと思えます。
僕は要介護状態にある方々への「生活支援の基本」は、人類共通の人として生きる姿「自分でできることは自分でする」「人と人が関係を織りなし互いに助け合って生きる」「社会とつながって生きる」だと考えて、その人として生きる姿の基本を維持できるように・取り戻せるようにすることが「介護」の本道だと思っていますが、
きっと2050年2075年2100年になっても変わらないことでしょうし、人が人に「苦・不快」を押し付けることさえも変わらないのではないでしょうか。
いやはや思いつくままに書いたら、正月から「くらぁ~い記事」になりましたが、今年も脳と身体を駆使して「一生天命」を一生懸命全うしたいと思います。よろしくネ