介護で「自立支援」は適切ではない
自立支援という言葉を介護の世界でよく見聞きします。
僕は「自立支援のカリスマ」みたいな言われ方をする時がありますが、僕自身は自立支援という言葉を使わないし語りもしません。
というのも、要介護状態になった方々の多くは元の「自立した状態」には戻れない方々で、自立できていない状態から自立した状態を一旦獲得された方が、何らかの原因で自立できなくなるのですが、元の自立した状態はそう簡単に取り戻せるものではないからだと考えているからです。
僕は、それだけ国民の大多数が得ている「自立した状態(一般的な状態)」というのはスゴイ状態だと思っています。
介護保険法の目的に「有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように」と謳っていることを簡単に「自立支援」と表現しているのかなと思うばかりですが、
他人様の支援を受けざるを得ない要介護状態を他人様の支援を受けなくてもよい「自立した状態」を取り戻すために支援することは非常に困難なことで、簡単に「自立支援」などと言えるはずもありません。
特に原因となる疾患が非可逆的な認知症という状態は、残念ながら「元の状態に戻ることはない」と言っても過言ではないでしょう。
生きる姿からみる自立
学ぶより考えるタイプの僕ですから、学問から「じりつ」に足を突っ込むとわけわからなくなると思い、自立だとか自律だとかを調べる前に、人はどう生きているか、この国の人はどう生きているか、少なくとも自分が見聞きしてきた人たちの共通項を探って考察してきました。
僕の誕生
自分の意思で産まれた人はいません。僕も僕の意思とは無関係に、おやじとおふくろがどこかで知り合い、いつの日か性交渉をもち受精した結果、誕生しました。
お腹の中で約10か月すごした後、この世に姿を現しましたが、誕生する場所を自分では選べず、大人たちの成すままの状態でした。
誕生して間もない僕には68年間経った今も変わらぬものがくっついていたことでしょう。手足は二本ずつ、眼や耳はふたつ、口鼻はひとつ、鼻の穴はふたつ、ちんちんもあり、見えはしないが心臓や胃はひとつ、肺はふたつなどなど。
ありがたいことに僕は、この国の一般的な状態にある人たちと変わらない状態で産まれることができ、今でもその状態を維持することができています(機能は低下し歯の数は途中から減りましたがね)。
こうやって僕を俯瞰して見えてきたことは、こうした基本的な「人としてのつくり」は、多少くたばりつつはあっても、僕の「生きる姿」を維持できないほど壊れることがなかったので変わりなく今を迎えられているということで、逆に産まれた時からみれば大きく変わったことがあることも見えてきました。
何にもできない・わからない・大人にやられ放題の僕
産まれたばかりの僕ができたことといえば、泣くこと・泣かないこと、吸うこと、手足を動かすこと、原始的な反射行動(にぎるなど)など、今の自分と比べるとほとんど何にもできなかったし、わからなかったことでしょう。
大人が一生懸命話しかけてくれても何のことかさっぱりわからなかったでしょうね。
やがて眼が見えるようになると情報を取り込む量は多くなったはずです。
でも、眼に入ってくる情報を処理して「触ってみたい」とか「そっちへ行きたい」と思えたとしても、A地点からB地点まで移動する能力が備わっていないため、行動に移すことができなかったことでしょう。
つまり、自分の意思を行動に移すことができない状態です。
大人は僕の意思を確認することもなく、誰が見ていようが僕を素っ裸にしたり、排せつの後始末をしたりしたことでしょうが、それに抵抗したいと思ったとしても抵抗する能力もなかったことでしょう。
あったとしても、泣いてみるか、のけぞってみるか、手足をばたつかせてみるか、そんなもんで、されるがままの状態だったでしょう。
何にもできない・わからない僕でしたが、できないことやわからないことに何ら違和感をもたなかっただろうし、大人も僕が、できなくたって・わからなくたって「おかしい」と思うこともなく、それが赤子の一般的な姿だと受け止めてくれていたはずです。
つまり、赤子が大人と同じことができない・わからないのは当たり前のことであり普通のことで、赤子がいきなり大人のような言動をとったら天才だなんて言う人はいないはずで、きっと「どこかおかしいのではないか」と疑い心配することでしょう。
僕自身、僕の子供が生後七か月で二足歩行し出したときは「おかしい」と疑いましたからね。
こうしたことを僕自身が僕を検証することはできませんので「でしょう」と書かせていただきましたが、子育てを経験した方はわかることです。
大人は、子供が大人のようにできなかったりわからなかったりすることに疑問をもたないのは、いちいち学問として習うことはなくても「子供だから当たり前」という受け止めがあるからではないでしょうか。
これが「ひと」としてのスタート地点です。
自分の意思を行動に移す
やがて首がすわり、寝がえりをうつことができるようになり、這い這いができるようになり、あっちにこっちに動こうとします。つまり、自分の意思を行動に移すことができなかった状態から自分の意思を行動に移すことができる状態への転換で、その意味では「自立の始まり」とも言えます。
ところがここではまだ「自分に意思をもって行動に移すことができても、やり遂げることができない状態」ですね。だから、どんなことが・どこで・いつ起こるかわからないため、大人は子供が自分の意思を行動に移すことができるようになると目が離せなくなります。
大人は四六時中子供を自分にくっつけておくわけにはいきませんから、策としてストーブの周りに囲いをつける、キッチンや階段の出入り口に柵をつける、鋏や針など命にかかわるような危険物を手の届かない眼に映らないところに置く、大人が子供に触れられたくないものは触れられないところに置くなどの手だてを講じます。
でも、こうした手立てはすべて「自分の意思を行動に移すことを応援する手だて」で、子供の動きを封じ込むのではなく環境を整えるということで全て「自立へのスタート地点ちょっと先の状態」への策です。
介護を考えていくうえで「ひと」のそもそもの状態・姿から考えることを僕は大事にしています。
※次号に続く